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内容詳細
「生かす知」を身読する!
パウロの神学は観念的なものではなく、神との人格的交わりへと導く、すべての人を生かす思想である。聖霊の経験をとおして、パウロ書簡のテキストを実践的な“身読”によって解釈し、キリスト教の奥義に迫る画期的な試み! 著者の長年の探究から得られたパウロ思想の真髄。
書評
行じながらパウロの信仰を経験する指南書
門脇佳吉著
パウロの中心思想
霊の息吹の形而上学
山岡三治
パウロの信仰を自分のものとする
著者は上智大学名誉教授(哲学)であり、またイエズス会の霊性をペドロ・アルペ神父(元イエズス会総長)から修得したカトリック司祭、しかも大森曹玄老師のもとで印可を受けた禅者でもある。とはいえ、遠藤周作とか井上洋治のような「日本的キリスト教」を作ろうとするものではなく、あくまでも伝統的なカトリック信仰に立ってパウロ信仰を体験的に深める指南を提供してくれている。
パウロを理解するには、知識と意識的信仰のみでなく、呼吸を整え、神への深い信頼で「アバ、父よ」を唱え続けるような「行(ぎょう)」が必要であり、それこそ従来の西洋型の解釈に見落とされている大事な見方である。パウロ関係の書物は難解なものが多いが、本書は親切なことに著者の「私の身読的解釈」欄が随所にあり、著者の人生経験(洗礼を受けたときの変化や原爆の大疑団等)があり、とても身近なので、まずそこから読んでいくのも興味深いことであろう。
パウロの聖霊体験とその深化
パウロにとっての信仰は、単なる「意識的行為ではなく、神と人間の間の契約関係の中で全身を投入する行為的自己の行為」であり、イエスの呼びかけに応答する全身心的行為である。また神は「働く神」であり、人間も万物も「神の働き」に動かされ、導かれ「働く者」であり、存在と働きが一致している。(西洋哲学や神学はこれが見抜けていない。)もし神の恵みに与って愛を実践しているならば、その人々は神の力の現れを実践しているのであるから、「無名のキリスト者」と言えるし、現実に著者はその代表者を数々見てきている。
他方で、現実として存在して働く神を認めない状態にあるなら、そこから回心しなくてはならない。神の息吹(聖霊)を体験して、パウロの信仰をたどるのである。それは道元が、仏(ぶっ)性(しょう)は各自に備わっているとはいえ、修行しなくては現れないと言うのに似ていて、あるいはそれを超えており、聖霊に信頼して念じていけば、神の働きによって必ず到達できる。なぜならその道にはかならず導き手としての神がおり、洗礼はキリストが霊的「同(どう)行(ぎょう)二(に)人(にん)」となり、パウロのように宣教に力を注ぐことによってキリストがいつも共に働いていることの確証となる。洗礼には厳粛な特徴がある。それはキリストと共に大死することによってキリストと共に大活する(大死、大活は禅のダイナミックな用語)ことであり、それによって洗礼を受けた者はつねに「キリストと共にある」ことを身に感じ、あかしと宣教の生涯を送ることができるようになる。
感謝の祭儀とコイノニア
パウロはまた感謝の祭儀を大事にしたのはコリント人への第一の手紙一〇章に明らかである。ただし注意しなくてはならないのは、主の晩餐で「キリストを食べる」という考えに向かうのでなく、それが「主の死を告げ知らせる」ことであり、「キリストのからだとの交わり(コイノニア)」に入れられることにより注目するべきである。前者にはキリストの血による贖罪の業がいまも活きていることを示しているし、後者には信仰共同体の意義が明らかにされている。つきつめていえば、一緒に集まって感謝の祭儀を祝うこと自体が福音を生きることであり、福音宣教である。プロテスタント神学者には、信仰による神の義の無償性の強調が過ぎて、その背後にあるキリストの血の贖罪の業とその想起を軽視するきらいがあるのではないか、と著者が言うところにカトリック的な見方が継承されていると思える。本書は前著『パウロの「聖霊による聖書解釈」』(知泉書館、二〇一〇年)とあわせて読むとよりわかりやすくなるだろう。
(やまおか・さんじ=上智大学神学部教授)
(四六判・三〇〇頁・定価二六二五円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2011年12月号)より