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内容詳細
「イエスの人格とは神の痛みそのものであるにもかかわらず、彼の教説は神の痛みよりもむしろ神の愛に優位が置かれているのはなぜであろうか? 『神の痛みの神学』の著者が、奇跡物語の読み方や古代教会の神学形成の歴史にも触れながら、十字架と復活に基礎づけられた神の痛みと愛を平易な言葉で説き明かす。朝日カルチャーセンターで語った好評の聖書講話シリーズ。
書評
イエスの時代の生の声を聞く
北森嘉蔵著
マルコ福音書講話
鍋谷堯爾
『マルコ福音書講話』は、北森氏が、東京、新宿の朝日カルチャー・センターでの聖書講話のテープ起こしをしたものが、教文館から出版されたもので、『詩篇講話』からはじまり、九冊目に当たる。福音書としては、二〇〇九年に出版された『マタイ福音書講話』につぐものである。マタイ福音書は二八章を上下二巻として、出版されたが、マルコ福音書は一六章を一巻として出版されている。北森氏はマタイと比較して、マルコ福音書に教えの部分が圧倒的に少ないことに注目する。そして、マルコ福音書を、「序文をもった受難史」として位置づけする。それにもかかわらず、マルコ福音書の冒頭の「神の子イエス・キリストの福音」という言葉について、アリウスにはじまる二五ページに及ぶ、教理史的な解説からはじめる。それは、講話の最後、一五章三三節の解釈への伏線となっている。アリウスを論駁したアタナシオスは、福音を受肉に重点をおいて理解したのにたいし、北森氏は、福音理解は十字架、それも神の痛みに裏付けられた十字架の神学でなければならないと主張する。北森氏は「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」のイエスの叫びは、通常の詩篇二二篇全体にかかるという解釈を捨て、文字通り、父なる神に捨てられた絶望の言葉であると主張する。そして、モルトマンを引用する。「受難金曜日を、その冷酷で神なき様そっくりそのままに、再現するためには、キリスト教において通例十字架に関して言われてきたあの伝統的な救済論を、先ず第一に捨てることがキリスト教信仰にとって必要である」(二五八ページ)。北森氏はつぎのように結論づける。「『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』は文字どおり『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか』と受け取らなければならないのであって、それ以外のいかなる受け取りかたも承認してはならないのです。そして新約全体のメッセージとむすびつけますと、ここで捨てられた神と捨てられたイエスとは一体であり、同一の肢体ですから、神がイエスを捨てることは、自己が自己を捨てること、自己放棄、自己犠牲ということになって、福音の心臓部がここで示されることになります」(二六二―三ページ)。「そしてマルコは、この言葉以外のすべての言葉を放棄しているのです。他の福音書はよく言われるように、七つの言葉を十字架で語ったと記しておりますが、マルコは他の言葉すべてを放棄して、この一つの言葉だけを保存しております。あとは、イエスは声高く叫んで息をひきとられた、という記事になっておりまして、その点でマルコの受難記事の特色がございます」(二六三ページ)。
このような序論的な教理史と、一五章三四節のクライマックスについての結論の間に、北森氏のマルコ福音書講話が章を追って講解される。筆者は在りし日の北森氏の講演を何度か聞く機会を得たが、いつも、聞く者の関心を最後まで引きつけてやまない新鮮さを持っていた。このマルコ福音書講解においても、普通の注解書にはない切り口を見せてくれる。それは、二〇〇〇年経った現在の古典的キリスト教から、さかのぼってイエスの時代の生の声を聞くためにという意気ごみをもった北森氏独特の切り口である。その切り口をいくつか挙げてみよう。(1)マルコ福音書の受難史の序文は、序の部分にある個々の記事を印刷模様で読みつつ、同時に後半部分の受難、十字架の記事を透かし模様で読むべきである。(2)聖書という書物はキリスト教的常識を蹴飛ばす。(3)キリスト教の中心内容を示す言葉は「外を内に包む」ことである。(4)たとえには、物をあらわす面と隠す面と両方ある。(5)ワンダーとミラクルの区別によって奇跡は理解できる、など。北森氏はこうした独自の切り口で、普通の注解書にはない新鮮な講解をすすめていくが、その中心は、「神の痛みと痛みに基礎づけられた愛」である。それは一九四六年の「神の痛みの神学」にはじまり、四十数冊に及ぶ著書に一貫している思想であるが、テープ起こしによるマルコ福音書の講話という形で、もう一度新しく、まさに、いまの日本への語りかけとして響いてくる。
(なべたに・ぎょうじ=神戸ルーテル神学校教授)
(B6判・二八四頁・定価二二〇五円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2011年8月号より)
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