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内容詳細
キリスト教大学にしかできないこととは何か? 明治初期の建学の原点に立ち帰って現在の課題を問い、キリスト教大学としての未来への展望を切り拓く、意欲的な論考と新しい実践プログラムの紹介!
書評
キリスト教大学にできることは何か?
青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部編
青山学院大学総合研究所叢書
キリスト教大学の使命と課題
青山学院の原点と21世紀における新たな挑戦
朴憲郁
二〇〇七年四月より三年間に亘って、青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部は「大学におけるキリスト教教育― その歴史・現状・展望」と題する共同研究企画を立てて、その成果をこのたび出版した。評者は、当総合研究所から本プロジェクト評価委員の一人として委嘱されていた関係上、この研究の動機や進展ぶりを時折側面から知る機会を得、その都度少なからぬ関心を抱いていた。今回の出版によって、その研究成果の全貌を知ることが許されて、改めて啓発され、学ばされた。
近年、日本のキリスト教大学論は途絶えることがなく、おもにキリスト教高等教育の担い手による自己省察、教育界内外への危機意識と分析、教育への責任的使命に基づいて、意欲的に展開されている。本書もその例外ではないが、その中心に、当大学の存立の意義・使命・実践を確認しつつ、自他共にそこから広く将来を展望することへの願いがある。
第一部「明治期の原点」は四章から成り、当時文明開化と近代化を急ぐ国策の中で、キリスト教に基づく高等教育機関たる大学設立の動向を、具体的な人物を中心に考察する。第一章でシュー土戸ポールは、青山学院の草創期に、宣教師で創立者の三氏に劣らず貢献したガウチャー博士の総合大学構想、財政的支援、アメリカのメソジスト監督教会の海外宣教活動の指導的役割に注目して、彼を高く評価する。第二章で嶋田順好は、若者に近代農学を就学させ西欧文明の源流に触れさせる最初のキリスト教学校、すなわち草創期の札幌農学校に匹敵し得る「学農社農学校」を外国宣教団体の支援なしに創設した津田仙の思想と行動に迫る。第三章で酒井豊は、日本教育史専攻の立場から、メソジスト・キリスト教信仰に立脚した中・高等教育を指導した青山学院初代校長の本多庸一の思想(特に彼の説教「国士論」)に注目し、そこに、当時の官立学校を批判しつつ、高度な一般的知的活動の相対的完結性とそれを超えるキリスト教信仰を生かす大学教育論の礎があったと捉える。第四章で梅津順一は、熊本洋学校と同志社で学んだ徳富蘇峰の福澤諭吉批判を修正して、福澤が必ずしも実用学の偏知主義者でなく、英米プロテスタントの宗教的道徳論(彼の訳本『童蒙教草』など)を内包する一身独立の『学問のすゝめ』を説いたとしつつも、福澤は結局欧米の啓蒙主義と明治期日本の文明開化論の枠内でキリスト教と聖書と聖書の神を受容するに留まったと帰結する。
本書は「決して網羅的な叙述ではない」と断っているにせよ、メソジスト的伝統に育まれた当大学を含めて、長い歴史をもつ日本「プロテスタント・キリスト教大学の過去・現在・未来を論じた」と言うには余りにも明治期に限定している。その後の大正デモクラシーや戦時下の挫折、戦後の再建期など、紆余曲折の歩みにおける特記すべきキリスト教的高等教育論調や実践的試みについて一項目設けて考察し、歴史の前後を郢ォげることが求められよう。どの章も明治期の代表的な人物に焦点を当てた含蓄に富む意欲的な論考であるだけに、その点が惜しまれる。
残念ながら、紙幅の関係上、次の第二部と第三部の内容に触れられないが、それぞれのテーマと執筆者は左記の通りである。
第二部「現代の大学とキリスト教教育」のテーマのもとで、第一章では伊藤悟が「キリスト教大学における教養教育」を、第二章で大島力が「現代の環境教育とキリスト教」を、第三章で東方敬信が「『真の大学』へのパラダイム転換」を論じる。
天変地異に苛まれてきた日本人の自然観を近頃考えさせられている評者にとって、第二章に特に興味を抱いた。
第三部「実践と展開」は、青山学院大学における若者へのキリスト教高等教育プログラムの実践的取組と成果とを検証し、さらなる展開を試みている。第一章で河本洋子が「キリスト教に基づく『全人教育』の可能性」、第二章で伊藤悟が「ソーパー・プログラムの成立と基本理念」、第三章でシュー土戸ポールが「サービス・ラーニングの理論と実践」を詳細に紹介する。
読者は、現代の教育状況の中でキリスト教建学精神を生かす教師たちの意気込みと使命を本書から感じ取るであろう。
(ぱく・ほんうく=東京神学大学教授、日本基督教団千歳船橋教会牧師)
(A5判・二七八頁・定価一六八〇円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2011年8月号)より
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