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内容詳細

中東人の聖書解釈の伝統と生活体験に根ざした全く新しい「福音書」の読み方を展開する。

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書評

重要であり興味深い試み!

ケネス・E・ベイリー著
森泉弘次訳

中東文化の目で見たイエス

本書は、六部(Ⅰ イエスの誕生、Ⅱ 山上における九福、Ⅲ 主の祈り、Ⅳ イエスの劇的行動、Ⅴ イエスと女性たち、Ⅵ イエスの譬え話)、全三二章から成る大著である。
著者は一九三〇年の生まれで、児童期をエジプトで過ごし、米国の神学校で学んだ後、およそ四十年間を中東で過ごした。一九七四―八四年(レバノン内戦と重なる時期)ベイルートの近東神学校で新約聖書を教え、一九八五―九五年エルサレムのエキュメニカル神学研究所で、さらにキプロスでも教え、一九九七年に米国聖公会ピッツバーグ教区主教座聖堂参与神学者になる(「訳者あとがき」)。
著者は言う――中東には十数世紀にわたりユダヤ教徒とイスラム教徒が暮らしてきたことを知っていても、中東のキリスト教徒の存在については西欧人の意識からほとんど消えてしまい、今日でも一千万人以上のアラビア語を話すキリスト教徒が実在することを意識している人は少ない。彼らは豊かな古代および近代の文献の遺産を所有している民だというのに。そしてシリア語、ヘブライ語、アラム語、アラビア語で書かれた初期文献は、民族文化レベルにおいて、西欧のギリシア・ラテン文化よりもイエスが属していたセム語族的世界にずっと近いのだ、と(一四頁)。
そこで著者は、旧約聖書が編纂され新約聖書が書かれた時代の諸文献だけでなく、一〇四三年に没したバグダッドの学者イブン・アル=タッイブによるアラビア語の福音書注解書その他を活用し、著者自身の中東での豊かな生活体験を織り交ぜながら、福音書を西欧キリスト教神学の視点に加え、中東文化の光に照らして理解しようとする。
たとえば、サマリアの女性とイエスの話(ヨハネ四・一―四二)に関し、中東の井戸はつるべが備えつけられていないため旅人は自分でもっていなければならない。それなのにイエスはつるべをもっていない。弟子たちがそれを持参したまま町に買出しに行ったらしい。イエスは疲れて非常に喉が渇いていたのに。イエスがそうさせたのだと言う。なぜ?
それだけではない。イエスは、井戸の上に(「そばに」ではなく)腰かけ、誰か水汲みに必要な用具をたずさえた人が現れるのを待った。サマリア人の女性がやって来る。中東の常識として、男性であるイエスは退いて女性に対し少なくとも六メートル離れなければならない。だが、イエスは退かなかった。さらに第三者のいない場所で女性に話しかけるのはタブーであるが、イエスはそのタブーも破った。なぜか。イエスは深い考えから「わざと」そうしたのだと著者は言う(二九八―三二五頁)。
不正な管理人の譬え(ルカ一六・一―八)も、「中東伝統文化に深くはめ込まれている」。中東では解雇を宣告された者が、再雇用されるために自己弁護をせずに部屋を出て行くことなどまずありえないのに、この管理人は慌てず、管理台帳をまだ手にしている間に負債者たちに恩を売って自らの身を守る手を打った。巧みな「詐欺行為」である。ところが主人は彼のしたことをほめ上げた。なぜか。著者は自らの神学的解釈を展開する(五〇五―五二一頁)。
福音書を「中東文化の目」で見直そうとする著者の試みはたしかに重要であり興味深い。と同時に、イエスの物語や譬えの中東文化的背景が理解できても、難解なイエスの言動や譬えは依然難解だなあ、というのが正直な感想である。郷に入っては郷に従えの精神で長年中東の人々の中で暮らした著者が、中東の常識やタブーを破ったイエスの言動を伝統的キリスト教神学で正当化する論法にアンビバレントなものを感じないわけではない。しかし、それも含めての本書の面白さである。
事実、猛暑を忘れてイエスの話をもう一度読み直し、本書との対話を深めたいという思いが強まった。著者は、譬えの管理人を「ロビン・フッド的人物、カウンター・カルチャー(反体制的)ヒーロー」にまで持ち上げている(五二〇頁)。だが、それだと結果的に、「主人」は善良な市民を苛める悪徳領主ということになってしまわないかというのも、著者に尋ねてみたい素朴な質問の一つである。
(池田裕 いけだ・ゆたか 筑波大学名誉教授)
(A5判・七四二頁・定価六五一〇円[税込]・教文館)
『本のひろば』(2010年11月号)より