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内容詳細

『赤毛のアン』の原点はここに。
時代の先駆者・村岡花子の青春期を巡る旅。

「薄紫のブドウにはさまざまの若い歳月の思い出がこもっている。
 いわばわたしの青春は甲府につながるといってもいいだろう。」

——村岡花子『ぶどうの房』より

「甲斐の国の山と水は私の若い年月のたましいの糧であった。」

——村岡花子『甲斐路にて』より

『赤毛のアン』の翻訳者として知られる児童文学者・村岡花子の生地であり、大正期に山梨英和女学校の教師として5年間働いた地である甲府。そこは花子にとって、人生の志を立て、みずみずしい青春と結びついた大切な場所であった。彼女の遺した数多くの名随筆と貴重な図版とともにその足跡をたどる。

 

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書評

<本のひろば2021年10月号>

若き日の花子の経験を鮮やかに浮かび上がらせる
〈評者〉小檜山ルイ

 2014年にNHKが『花子とアン』を放映してからもう7年がたつ。いまだに記憶が鮮明なのは、今年も再放送があったからか。村岡花子は、戦前、ラジオ番組「コドモの新聞」の読み手、「ラジオのおばさん」として人気を博し、戦後は、主に『赤毛のアン』の翻訳者として知られた。その事績は忘れられつつあったが、テレビの威力は大きい。村岡が甲府の出身で、東洋英和女学校で学び、山梨英和女学校で教え、現在の教文館で働き、福音印刷合資会社の創始者の息子で既婚者の村岡儆三(けいぞう)と恋に落ち、結婚し、一児を得たが病死したことなども知られるようになった。
 本書は、村岡花子がまだ安中花子だった山梨英和女学校教員時代に着目する。村岡自身が甲府や甲府時代について書いた随筆と、その随筆の解説の役割を果たす編著者深沢恵美子氏のエッセイで構成されている。
 安中花子は五歳まで甲府で育ったが、その記憶は薄かったらしい。山梨英和女学校で五年間教える中で、甲府を故郷と再認識するようになった。深沢氏は、生粋の甲府人で山梨英和卒。山梨英和学院に教員、同窓生、理事等として60年ほども関わる。この二人の甲府と山梨英和への思いが交差し、若き日の花子の経験がくっきりと浮かび上がる。かつて樋口一葉は、「酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山、裂石(さけいし)……小仏(こぼとけ)ささ子の難所……猿橋のながれ……鶴瀬、駒飼……勝沼の町……甲府は流石に大厦(たいか)高楼、躑躅(つつじ)が崎の城跡云々」と、山梨の景観を小説『ゆく雲』の冒頭に配し、自身は未踏の両親の故郷に思いを馳せた。その一葉の心境に読者を誘う、「甲府愛」にあふれた本である。
 その「愛」は、盲目的なものではない。対象への注意深い関心として表現される。編著者は、山梨英和学院史料室にかかわり、資料収集や整理を行ってきた。本書に収められた貴重な写真、地図、『同窓会報』等を駆使した細部にわたる情報は、村岡の随筆ではぼんやりとしか描かれていない「甲府時代」をより具体的に示し、当時のミッション・スクールの教育方針、教育や生活の実際、山梨のキリスト教人脈、教会と学校をめぐる共同体の存在、一部の卒業生の消息等を明らかにする。
 筆者にとって特に興味深かったのは、安中花子が宣教師的見解をかなり内面化していた点である。「心を与えないで、身を与えるのは罪悪」と柳原燁子(あきこ)(白蓮(びゃくれん))を批判したという花子は、西洋式のプラトニック・ラヴと性愛の区別を自分のものとしていた。また、彼女が目指した「一家で読める文学」の創出とは、明治の早い時点で女性宣教師が目指した文書伝道の方針だった。女性宣教師たちは、子供たちに、「権八と遊女の小紫」のような心中物語を比翼の鳥の話として聞かせる日本文化に仰天していたものである。
 蛇足だが、花子の初任給25円(53頁)は当時の小学校教員なみで、中等教育教員としては安い。これは、花子が東洋英和の給費生だったため、山梨英和での教務はそのお礼奉公と位置づけられていたからではないか。メソジストの全額給費生は3~5年程度の奉公が期待されていた。その年期があけたところで、花子は東京に移ったわけである。

小檜山ルイ(こひやま・るい=東京女子大学教授)