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内容詳細
真理は“ヘブライ語”原典にある!
ウルガータ聖書の翻訳者として不朽の名を残す教父ヒエロニュムス。
彼の翻訳理論の底流にあった「ヘブライ的真理」の思想とは何か。
新約における旧約引用から解き明かされる神学的聖書理解の核心!
欧米において、教父学そしてユダヤ学分野で発展してきたヒエロニュムス研究。本書は、海外の最新かつ豊富な議論を踏まえて展開される論考に、評伝と著作の紹介を加え、ヒエロニュムス自身の言葉であるウルガータ聖書序文の全訳(共訳・石川立)と註解を収録した、初の包括的研究書である。
■目次より■
序章 「ヘブライ的真理」とは何か
第Ⅰ部 ヒエロニュムスの世界
第1章 ヒエロニュムスの生涯と著作
第2章 教父学とユダヤ教科学の弁証法
第3章 ギリシア・ラテン聖書学の歴史
第Ⅱ部 ヒエロニュムスの思想
第1章 ギリシア語かヘブライ語か
第2章 新約聖書における旧約引用
第3章 ヘブライ人、使徒、キリスト
終章 結論と展望
第Ⅲ部 ヒエロニュムスの言葉
ウルガータ聖書序文(石川立と共訳)
■著者紹介■
加藤哲平(かとう・てっぺい)
1984年生まれ。2008年同志社大学神学部卒業、2013年同博士後期課程退学。2012-13年エルサレム・ヘブライ大学ロスバーグ国際校客員研究員を経て、2013年より米国ヒブル・ユニオン・カレッジ大学院博士課程。2017年同校よりM.Phil.(ユダヤ学)、同志社大学より博士(神学)取得。同年8月よりザビエル大学(オハイオ州シンシナティ)非常勤講師。
主要論文 “Jerome’s Understanding of Old Testament Quotations in the New Testament,” Vigiliae Christianae 67 (2013): 289-315; “Greek or Hebrew? Augustine and Jerome on Biblical Translation,” in Studia Patristica 98: Augustine and His Opponents, ed. Markus Vinzent (Leuven: Peeters, 2017):109-19.
書評
聖書とは何か、翻訳とはどうあるべきか
小高毅
近年、邦訳刊行された聖書としては、一九八七年の『新共同訳』の後、一九九五年から二〇〇四年にかけて分冊で岩波書店版が刊行され(二〇〇四―五年に五分冊で合本刊行)、二〇一一年にフランシスコ会聖書研究所訳注により『聖書原文校訂による口語訳』(一九五八―二〇〇二年刊の分冊を合本化)の刊行、さらに新約聖書のみではあるが本田哲郎、田川建三らの個人訳があり、岩波文庫や学術文庫に文語訳が復刻刊行されている。また古代の旧約聖書ギリシア語訳である『七十人訳』の邦訳刊行が進んでおり、さらに本年の年末には『聖書協会共同訳』の出版が予定されている。これはキリスト者が人口の1%にも満たない国にとって驚嘆すべきことではなかろうか。ではこれらの諸訳は聖書の理解にいかなる役割をはたしうるのであろうか。敢えてその一つを挙げて見ると、複数の翻訳を比較検討しながら読み進めるというものである。このような読書法は、古代のアウグスティヌスも推奨している。彼は『キリスト教の教え』の中で、「聖書の読者は逐語訳された翻訳を複数持つことによって、言葉よりも意味に従うことを選んだ翻訳者たちの、度を越した自由や誤りを正すことができると主張している」と本書の著者は指摘する(一七一頁)。ここで重視されるのは七十人訳であった。
つまり、起点テクストの七十人訳ギリシア語テクストと比較することでラテン語訳の意味を特定することができるのである。ということは、アウグスティヌスが想定していた読者は、起点テクストと逐語訳されたテクストとを一言一句比較できるほどのレベルの者たちであった。比較できるほどの原語の知識を有するとなると、ごく限られた者になってしまうだろう。アウグスティヌスその人が自分のギリシア語に関する知識の低さを告白している。さらに旧約聖書の中心的言語であるヘブライ語となると、アウグスティヌスを含めて、「おそらく当時はヒエロニュムス以上にヘブライ語を正しく読むことができる者など、教会にはほとんどいなかったことだろう」(一七四頁)。それでも問題とならなかったのみならず、原語のへブライ語からの翻訳が必要ともされなかったのは、当時の教会にとって「七十人訳」は「聖霊によって霊感を受けたテクストであるから」のみならず、まさに「ギリシア語で書かれた」もの(一七五頁)であり、ラテン語の翻訳テクストを比較しつつ読むことができるからでもあった。それにもかかわらず、ヒエロニュムスは決然とヘブライ語からのラテン語訳に挑んだのである。アウグスティヌスの巨大な影響下にある西方キリスト教はその聖書釈義を高く評価し、それに倣ってきたが、起点テクストに関してはヒエロニュムスに倣ってヘブライ語版を採択しているのは興味深いことである。ウルガータ訳を正典聖書とするローマ・カトリック教会は、典礼の刷新によって各国の言語が用いられるようになったことからヘブライ語版を底本とした翻訳の聖書が用いられている。ウルガータ版とヘブライ語からの現代語訳とでは、時としてずれがあるが、今のところ問題とされていない。もっともウルガータ版の現代語訳は刊行されてもいないのだが。
ヒエロニュムスというと、「かれの短気で、がみがみ言う性格、かれの嘲弄癖がかれに敵をつくった。敵に頬を差し出すことは、かれの意にかなうことではなく、かれは利子を付けて殴り返した。皮肉な所見によって、相手を突き刺すのがうまくゆくと、かれは安心したようである」(アマン『教父たち』家入敏光訳、二四四─五頁)といった言葉を連想してしまうが、本書で浮き彫りにされるのはラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の三つの言語に堪能な古典学者・聖書学者としての姿である。この書がきっかけとなり、あらためて聖書とは何か、聖書の翻訳はどうあるべきものなのか考えさせられるのでなかろうか。教父とはいえ、取り上げられることの少ない聖書学者の草分けともいえるヒエロニュムスを知る格好の書が刊行されたことはまことに嬉しい次第である。
(おだか・たけし=フランシスコ会士・カトリック司祭)
『本のひろば』(2018年10月号)より