※在庫状況についてのご注意。
内容詳細
罪と罰の物語の深層
出エジプト記32章の「金の子牛像事件」は、ユダヤ教にとっては先祖の「大いなる罪」であり、キリスト教にとってはユダヤ教への非難材料であった。各伝承でこの事件はいかなる罪と見なされ、モーセやアロンはいかなる人物像に描かれたのか。ユダヤ学の立場から古代キリスト教教父の解釈との比較分析を試み、相違と近接関係を解明する貴重な研究。
【目次】
第1章 先行研究およびユダヤ教とシリア・キリスト教の比較の意義
第2章 罪
第3章 アロン
第4章 モーセ
第5章 イスラエルの民
第6章 サタン
第7章 結論
補 遺 子牛像事件解釈から見るユダヤ教、ギリシア・ラテン教父、シリア教父の神観
書評
「罪」の物語のユダヤ学の立場からの考察
勝村弘也
本書は出エジプト記三二章に記された金の子牛像事件の解釈史に関する研究である。ヘブライ語聖書(旧約)の特定のテクストに関するキリスト教とユダヤ教の立場からの解釈の比較研究という点では、目新しいものではなく、この種の研究にはすでに相当な蓄積がある。しかし、本書には以下のような特徴がある。まず聖書学や神学の立場からの研究ではなく、「ユダヤ学」からの研究である。これはもちろんユダヤ教の立場からということではない。次にキリスト教の側からの解釈というと従来ほとんど西方教会の文献だけを問題にしてきたのであるが、本書ではアフラハトやニシビスのエフライムに代表されるシリア・キリスト教の側からの解釈に相当の頁数がさかれている。彼らはヘブライ語と同じセム語圏に属する言語で著作活動を行なったと言う一点だけからみても、その重要性は理解できる。本書が扱っている範囲は、古代の文献に限定される。キリスト教では四〇〇年頃まで、ユダヤ教ではアモライーム期、つまり五〇〇年頃までのものになるが、このような時間的ずれは大きな問題ではない。キリスト教の教父文献の場合は、著作年代がたいてい明確であるのに対して、ユダヤ教の伝承というものは、口伝が発生してから文書に記述されるまでの間に一定期間のずれが生じるからである(二九頁)。
本書全体の構成を見ると、第1章で先行研究や研究方法などについて論じた後、問題の聖書テクストの構成要素である「罪」「アロン」「モーセ」「イスラエルの民」「サタン」に関する解釈を比較考察している。先行研究では、ユダヤ教の伝承を扱うに際して「ラビの」という一つのカテゴリーにまとめてしまう傾向が強かったのに対して、大澤は「その内部の、例えばタナイーム期とアモライーム期の差異」を問題にする(一八頁)。ユダヤ教伝承をこのように時代を追って考察する方法は第3章「アロン」に関する解釈では、十分に成功している(六七頁以下)ので、ここではこの章について紹介する。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』では出エジプトの出来事について語る際に、子牛像事件そのものに言及しない。これは彼が一貫して大祭司「アロン擁護の姿勢」をとっている事と関係がある(六八頁)。アレクサンドリアのフィロンの場合は、子牛像事件のことは語るがアロンには言及しない。これは意図的にアロンの責任を否定しているからである(七一頁)。しかし、タンナイーム期の他の伝承では、「アロンの罪を認めた上でその罪はほぼ赦されたとする姿勢」が見える(七六頁)。アモライーム期になると解釈は非常に多様になる。何らかの根拠を挙げてアロンの行為を正当化するもの、断罪されるべきなのは民であるとするもの、さらに子牛像を作ったのは異邦人であるとする解釈までが現れる(七六頁以下)。なお、ユダヤ教の解釈の伝統に関連して、出エジプト記三二章二一―二五節の「第二の子牛事件」は朗読されるが、翻訳は禁止されている事が注目される(一三頁)。興味深いのは、アロンの責任を軽減しようとする傾向が、テルトゥリアヌス等のラテン教父にもみられる事である(八四頁)。同じ傾向はシリア教父にも認められるが、エフライムの場合、その説明の仕方がユダヤ伝承と共通している(八七頁以下)。ユダヤ教を攻撃する材料に出来るはずのこの事件において――この点については第5章「イスラエルの民」で問題になっている――、キリスト教もアロンを擁護する解釈を多く残しているのはなぜかを大澤は問題にする(九〇頁)。この点についてイエスが神から大祭司としての身分を与えられたからだとするだけでは十分な答えにはならない。ヘブライ人への手紙ではアロン系ではなくメルキゼデク系祭司が問題になっているからである。この問題については考察が十分ではないので死海文書も視野に入れた今後の研究に期待する。
第6章「サタン」には相当の頁数がさかれていて内容的にも興味深いが、やや雑な論述になっている感が否定できない。古代末期のサタン像を取り上げるためには、比較宗教学的な考察が不可欠であるし、マステマ、ベリアルだけではなくトビト書のアスモダイ、さらにはサムエル記上の「悪霊」までが視野に入ってくるはずだからである。なお全体的に初代キリスト教史への理解が不足している印象があるので、さらなる学びに期待したい。
(かつむら・ひろや=神戸松蔭女子学院大学名誉教授)
『本のひろば』(2018年9月号)より