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内容詳細
罪の赦しと永遠の命がここに!
20世紀ドイツ語圏を代表する牧師・神学者(バルト、トゥルンアイゼン、イーヴァント、アイヒホルツ、シュニーヴィント、ヴェスターマン、ユンゲルら)によるレントとイースターの名説教28篇を収録。喜びと慰めに満ちたメッセージを、フラ・アンジェリコやジョットらのカラー絵画が彩る。
好評であった『光の降誕祭──20世紀クリスマス名説教集』(加藤常昭訳、教文館、1995年)の姉妹編。
「二人の犯罪人の間で十字架に架けられ、その頭からは血潮がしたたり、傷だらけになったキリストがあなたの味方でいてくださるのです。それはひとえに、あなたと共にいるため、キリストを拒むあなたと共にいるため、深淵と罪の場所で『あなたの罪は赦された』と語るためなのです。そのようにして人はエルサレムに上って行き、そのようにして十字架から命へと帰って来るのです」(E.トゥルンアイゼンの説教より)
【目 次】
ゲオルク・アイヒホルツ
ヨハネの手紙一第4章10節
ユリウス・シュニーヴィント
四旬節第一主日(invokavit) 詩編第138編3節、7節
クリストフ・ビツァー
四旬節第一主日(invokavit) ルカによる福音書第22章31─34節
ヴェルナー・クルシェ
四旬節第一主日(invokavit) ヘブライ人への手紙第4章14─16節
フリードリッヒ・フォン・ボーデルシュヴィング
四旬節第二主日(Reminiszere) マルコによる福音書第14章26─36節
ハインリッヒ・ブラウンシュバイガー
四旬節第三主日(Okuli) エフェソの信徒への手紙第5章1─8節
ローター・シュタイガー
四旬節第三主日(Okuli) ペトロの手紙一第1章18─19節
ハンス・ヴァルター・ヴォルフ
四旬節第四主日(Laetare) イザヤ書第52章7─10節
ハンス・フォン・ゾーデン
四旬節第四主日(Laetare) ローマの信徒への手紙第5章1─5節
ジークフリート・ヴァーグナー
四旬節第五主日(Judika) 創世記第22章1─19節
アントニウス・H・J・グンネヴェーク
棕櫚の主日(Palmarum) イザヤ書第50章4─9節
ハインリッヒ・アルベルツ
棕櫚の主日(Palmarum) マタイによる福音書第21章1─11節
マンフレート・ザイツ
洗足木曜日(Gründonnerstag) ルターの『小教理問答』
ゲオルク・メルツ
洗足木曜日(Gründonnerstag) 詩編第23編
クラウス・ヴェスターマン
聖金曜日(Karfreitag) 詩編第22編
エドゥアルト・トゥルンアイゼン
聖金曜日(Karfreitag) イザヤ書第53章1─6節、マルコによる福音書第10章32─34節
ヴァルター・アイジンガー
聖金曜日(Karfreitag) ルカによる福音書第23章33─49節
クラウス─ペーター・ヘルツシュ
聖金曜日(Karfreitag) ヨハネによる福音書第19章1─5節
ハンス・ヨアヒム・イーヴァント
聖金曜日(Karfreitag) コリントの信徒への手紙二第5章19─21節
トラウゴット・コッホ
聖金曜日(Karfreitag) コリントの信徒への手紙二第5章19─21節
ゲオルク・アイヒホルツ
コロサイの信徒への手紙第3章1─4節
カール・バルト
復活祭主日(Ostersonntag) イザヤ書第54章7─8節
ゲルハルト・ザウター
復活祭主日(Ostersonntag) マルコによる福音書第16章1─8節
ルードルフ・ランダウ
復活祭主日(Ostersonntag) ヨハネによる福音書第20章11─18節
マンフレート・ヨズッティス
復活祭主日(Ostersonntag) ローマの信徒への手紙第4章17節
クリストフ・ブルームハルト
復活祭主日(Ostersonntag) コロサイの信徒への手紙第1章12─20節
エーバハルト・ユンゲル
復活祭後第一主日(Quasimodogenti) ローマの信徒への手紙第8章18─24節a
カール・ハインツ・ラッチョウ
復活祭後第二主日(Miserikordias Domini) ペトロの手紙一第2章18─25節
訳者あとがき
書評
罪の赦しと永遠の命がここに!
深井智朗
数年前にミュンヒェンでイースターの朝の礼拝に出席したことを思い出す。まだ寒い、暗い礼拝堂で、祈りが捧げられ、オルガンとチェロの演奏が始まった。それが終わった頃、会堂に朝陽がさし込んできて、少し明るくなり、沈黙の中で、牧師が「キリストは甦られた」と二度大きな声で宣言し、いつもの礼拝が始まった。
礼拝中だけではなく、一日中「キリストは甦られた」と宣言した牧師の言葉が心を支配していた。この出来事のリアリティーがイースターだけではなく、すべての礼拝を支配していなければならないはずだ。私たちはイースターの礼拝で、魂の永劫回帰、今年も変わらずやってくる春に自然の力を感じること、人生の新しい始まりや人間の不屈の精神を語るのではない。また受難日と切り離された空虚な喜びを語るのでもない。「キリストは甦られた」ことのリアリティーを語るのである。ルードルフ・ランダウが編集したレントからイースターまでの教会暦を意識した説教選集を読みながらその日のことを思い出した。
本書は数年前に出版された『光の降誕祭――二〇世紀クリスマス名説教集』の続編で、レントからイースターへと歩むキリスト者の敬虔を養ってくれる。日本ではあまりなじみのない教会暦に沿って、その日にふさわしい説教を選んでいる。訳者はそのことを読み取って毎日曜日につけられた呼び名を丁寧に解説してくれているので、レントからイースターへと向かうそれぞれの日曜日を教会がどのように守ってきたかを知ることができる。
編者は禁欲的で多くを語らないのだが、本書の原題の副題が「受難と復活についての説教と絵画」となっているように、教会暦と説教の間に挿入された何枚かの絵画によって編集の意図を語っている。ランダウの仕事は、裏表紙に印刷されたグリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画に描かれているバプテスマのヨハネの指のようだ。編者は十字架につけられ復活された主イエス・キリストのリアリティーを指し示す「指」に徹している。
バルトやトゥルンアイゼン、イーヴァント、ボーデルシュビングなど前世紀前半の神学者や牧師、またユンゲル、シュタイガー、ザウターなど前世紀後半に活躍した神学者、さらに日本でもよく知られた聖書学者たちの説教が選ばれている。もう何度も読んだことのある説教であるが、訳者の新鮮で美しい翻訳を通して改めて教えられる。バルトはこう語る。「イースターを祝うとは、神が聖金曜日になされたことの中で神が語られた然りと否とを聞き取ることです。すなわち私たちすべての者に対する然りと、私たちが神から離れた状態――それが私たちの惨めさです――に対する否とを聞き取ることです」(二五六頁)。
しかし編者はこれまで印刷され、説教集などにまとめられることのなかった説教も紹介してくれている。ゲオルク・メルツの説教を初めて読んだ。メルツはバルトやゴーガルテンと共に神学雑誌『時の間』の編集同人であり、バルトの『ローマ書注解』の意義を見出した人物であり、クリスティアン・カイザー社のアルプレヒト・レンプの盟友で、編集顧問でもあった。彼の神学は教会的な伝統からはかなり自由なものだと思っていたが、彼の洗足木曜日の説教は、聖書的で、伝統的で「キリストにならう」真実を雄弁に語るものであった。メルツが洗足木曜日のために選んだ聖書の箇所は詩編二三篇で、彼は「この世の人々から見れば、敗北の交わりであった食事が勝利の聖礼典になった」(一六〇頁)奇跡、あるいは秘儀について語る。
自らも説教者である訳者が、丁寧に言葉を選び、読みやすい日本語に訳してくださった本書は、説教の準備を助け、神学的な思索の手引きになるはずであるが、そのような利用法に終わってはならないはずだ。私たちキリスト者が、「キリストは甦られた」という私たちの信仰のリアリティーへと立ち返るため、何度でも「信仰の読書」を繰り返すために用意された宝のような一冊である。
(ふかい・ともあき=東洋英和女学院大学人間科学部教授)
『本のひろば』(2017年6月号)より