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内容詳細
祈りは聞き入れられるのか?
キリスト教信仰へと導いた父を殉教で喪い、自らも財産没収や迫害の危機の中を生きたオリゲネス。神の予定と予知が決定的なら祈りは不要だと説いた祈禱不要論者と対峙する中で、彼は「祈り」をどのように考えたのか? 「キリスト教会最初の祈禱論」と呼ばれる『祈りについて』から、キリスト教的霊性と実践の本質に迫る。
「弱い人間が本来の生を目指して歩むためには、動揺する魂を常に神につなぎとめ、禱りをささげることが必要である。その禱りの受け手である父なる神は、怠惰によって神から離れていった魂を見捨てず、学びを経て回復するよう導く。それが最高善であり、人間と関わるために自らキリストと聖霊を送ってくださった方である。この神に対して人間は自由な態度を取り得る。ここに、人間は善や愛を学ぶことができる。強制や恐れによらず、愛を選ぶ学びである」(本文より)
【目次】
はじめに
凡 例
序 論
第1節 『祈りについて』概要
1. 執筆年代と場所、および執筆の背景
2. 『祈りについて』執筆の動機
3. 『祈りについて』の性質
4. 『祈りについて』の内容構成
5. 『祈りについて』の写本、校訂本
第2節 研究動機と目的
第3節 『祈りについて』研究史
1. 教理史における『祈りについて』の評価と課題
2. オリゲネス研究における『祈りについて』の評価と課題
3. 『祈りについて』研究における同著の評価と課題
第4節 研究方法および構成
1. 研究方法
2. 本稿の構成
本 論
第1章 御父への禱り
はじめに
第1節 「エウケー」と「プロセウケー」の使用
1. 『祈りについて』序および第1部(1章1節から17章2節まで)における「エウケー」と「プロセウケー」
2. 『祈りについて』第2部(18章1節から30章3節まで)における「エウケー」と「プロセウケー」
3. 『祈りについて』第3部(31章1節から34章まで)および結びにおける「エウケー」と「プロセウケー」
第2節 プロセウケーとほかの三種類の祈り ──『祈りについて』14章2節から15章1節における叙述から
1. 四種類の祈りの概要
2. 定義された要素に基づくプロセウケー
第3節 プロセウケーをめぐって
1. 祈りの効用について──祈禱不要論への反論とその展開
2. 御父にささげられる禱り
結
第2章 祈りにおける聖霊と御子の参与
はじめに
第1節 聖霊の参与
1. オリゲネスの聖霊理解
2. 祈りにおける聖霊の参与
第2節 御子の参与
1. 罪人と祈り
2. 悪魔の子から神の子へ──人間の責任と神の憐れみ
3. 罪人に与えられる可能性──御子の到来と参与
4. 神の子としての祈り──迫害する者のための禱り
結
第3章 魂の糧を求める祈り
はじめに
第1節 主の祈りのパンを求める祈りに関するオリゲネスの理解
1. 主の祈りのパンをめぐる理解
2. 祈りの結果として──旧約聖書における例から
3. パンを求める祈り──主の祈り解釈から
4. 主の祈りにおける「存在性」の強調および救済的視点における霊的解釈
第2節 この世において辿る魂のプロセス
1. 「魂」理解
2. 魂の辿る全プロセス
結
第4章 試みと愛──主の祈りの注解から
はじめに
第1節 「試み」と「悪」理解──主の祈り「わたしたちを試みに遭わせないで悪しき者からお救いください」解釈を手がかりに
1. 「わたしたちを試みに遭わせないで」解釈から──「試み」理解
2. 「悪しき者からお救いください」解釈から──「悪」理解
第2節 殉教理解──『殉教の勧め』を手がかりに
1. 殉教への態度とその目的
2. 先に見る希望としての報いと栄光
3. 恐れに対する内的戦い
4. 証しによる奉仕として
5. 殉教理解における「フィレオー」と「アガパオー」
第3節 「負い目」としての愛理解──主の祈り「わたしたちに負い目のある者をゆるしましたようにわたしたちの諸々の負い目をおゆるしください」解釈を手がかりに
1. 主の祈り解釈における「フィレオー」と「アガパオー」
2. 「わたしたちの諸々の負い目をおゆるしください」解釈
結
第5章 祈りへの応答──祈りにおける恩恵理解
はじめに
第1節 祈りにおける恩恵
1. オリゲネスの恩恵理解
2. 『祈りについて』における恩恵理解
3. 正しい認識をめぐる恩恵
第2節 祈りへの応答
1. 恵みをめぐる三位
2. 神の力
3. 神の行為選択
4. 祈りと「カタランバノー」
結
結 論
参考文献表
あとがき
書評
キリスト教的霊性と実践の本質に迫る
久松英二
本書は、オリゲネスの『祈りについて』(以下『祈り』と略記)に見られる祈りの思想をテーマに、聖学院大学大学院に提出された学位請求論文に若干の修正が施され、「関西学院大学研究叢書」第一八七編として発表されたものである。「序論」「本論」「結論」の三部構成で、「序論」では、『祈り』の概要が述べられたのち、同書を研究対象とした動機と目的が、現代に生きる我々にとって、「自らの人生を支え導くものとしての祈り」(四一頁)の意義を『祈り』から学ぶことだと説明され、『祈り』の研究史概観へと続く。
「本論」は全五章からなっている。第一章「御父への禱り」では、オリゲネスが「祈り」を意味する用語として「エウケー」(祈り)と「プロセウケー」(禱り)を使い分け、前者は祈り一般を指すものとして用い、また後者については、一テモテ二章一節を典拠に「より大いなることをより気高く求める者によってささげられる祈り」としてこれを理解し、ここにオリゲネス自身の祈禱観が投影されている、と著者は説明する。すなわち、この「禱り」は、ロゴスとして完全な神の像であるキリストが人間に神を示し、パラクレトスとして人間の魂を聖化して神にふさわしい状態へと高める聖霊のそれぞれの仲介によって御父にささげられるという。この両ペルソナの祈りにおける役割、また祈る対象である御父がいかなる存在であるかを論じたのが、第二章「祈りにおける聖霊と御子の参与」である。第三章「魂の糧を求める祈り」では、三位の神との関わりの中で人はどのように祈るべきか、について考察されている。オリゲネスは『祈り』の中で「ふさわしい祈り」の例として「主の祈り」における「パンを求める祈り」を引き合いに出す。彼によれば、「パン」とはロゴスたるキリスト自身であり、魂がこのロゴスに養われながらこの世での学びを重ね、浄化されていくことを願い求める祈りこそふさわしい祈りだと力説する。第四章「試みと愛」では、「主の祈り」における「わたしたちを試みに遭わせないで悪しき者(著者によれば、オリゲネスは抽象名詞としての「悪」ではなく、人格的存在の「悪しき者」と解釈している)からお救いください」という部分の注解と、オリゲネスの『殉教の勧め』を中心に、「試み」と「悪」の意味、また「負い目」として解釈される「愛」について、オリゲネスの思想を明らかにする。最終章の第五章「祈りへの応答」では、祈りによって神から与えられる「恩恵」について考察される。すなわち、祈りは神と関わることを選ぶ意志の表明であり、恩恵とは、この意志に対する神からの応答である。この恩恵が付与された結果、祈り求める人間は、その求めたことの具体的な実現以上に、神との関係に信頼や愛を選ぶようになるとされる。
以上、「本論」における検討の結果、著者は「結論」において、オリゲネスの祈禱観を次のようにまとめる。すなわち、彼の祈禱観の背景には、「実体」としての不可視的世界とその「陰影」としての可視的世界という二重構造があり、真の祈りが求めるべきものは「陰影」ではなく、天上の「実体」であること、つまり、神は、その「実体」に相当するものを求めることを人間に望んでいること、さらに、この世は万物の回復(アポカタスシス)へと向かうプロセスであって、怠惰によって自身から離反し、罪によって弱められた魂はこのプロセスの中で浄化され、神の似姿性に基づく本来の自己を回復しようとするが、神はこのような魂を見捨てず、学びを経て回復するよう導く。それが御子と聖霊の派遣の意味であり、このような神の愛に全面的に信頼を置いてささげられた祈りこそ、真の「禱り」である、と締めくくる。
本書は、全体を通して、議論の焦点がやや絞りにくい傾向にはあるが、オリゲネスの祈禱論という極めて特殊なテーマを、現代に生きる信仰者に意義あるものとして捉えなおそうとする著者の真摯な熱意が伝わる研究である。
(ひさまつ・えいじ=龍谷大学教授)