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内容詳細
ルターが目指したものは何だったのか?
ルターがローマ・カトリック教会に対しての問い『九五か条の提題』を掲示した出来事から五〇〇年。第二バチカン公会議後のカトリック教会でエキュメニズムを牽引してきたカスパー枢機卿が、「現代のエキュメニズムの視点」からルターを再解釈し、彼が投じた問いの今日的意義と多様性における一致への希望を語る。
書評
カトリック側から語られるルター理解
鈴木浩
著者は、「このようなエキュメニカルな精神においてカトリック神学はこれまでの五〇年の間にかつてのマルティン・ルターに対する一方的、否定的な評価を改めてきました」と「日本の読者の皆様へ」の中で語っている。「改めてき」たその結果が本書に要約されている。ちなみに、バチカンとルーテル世界連盟(LWF)の間の神学対話の委員会である「一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会」(Lutheran and Roman Catholic Commissionon Unity)も今年(二〇一七年)五〇周年を迎える。
カスパーは「一六世紀の議論の中心的な問題、すなわち義認の教理において基本的合意を達成することができました」とも語っているのだが、それがこの委員会の最大の成果であった『義認の教理に関する共同宣言』であった。宣言文書に対する両教会代表による署名は、ドイツのアウグスブルクで行われた(一九九九年一〇月三一日)。
本書は、本文が五〇頁にも満たない小さな著作であるが、次の七つの章から構成されている。
第一章 衰退から新たな出発への過渡期
第二章 ルターの意図──キリスト教の福音に基づく再生
第三章 教派の違いの時代の成立と終わり
第四章 ルターと近代精神
第五章 カトリック性の新しい発見としてのエキュメニカルな時代
第六章 マルティン・ルターのエキュメニズムにとっての今日的意義
第七章 慈しみのエクメネー──一つの展望
カスパーは、「若いルターはいわば改革派カトリック教徒と呼んでもいい」(一九頁)と語っている。同様に「中世後期の典型的な神学者」と初期のルターを位置づけるマクグラスは、そのルターが「改革者」へと変貌していくプロセスを論じているのだが(『ルターの十字架の神学』)、本書の性格上当然であるが、本書にはそれはない。カスパーは、今日ルターがどのように見られているのかを次のように指摘する。「ルターはかなりの数の人々にとってはすでにプロテスタント、カトリック共通の教会博士なのである」(一四頁)。つまり、ルターは、カトリックの側でもかなり広い範囲にわたって受け入れられている、という事実の指摘である。
カスパーは、「わたしたちは、福音主義であると同時にカトリック的なルター本来の根源的な意図を、今日エキュメニカルな視点でともに考えなければならない」(二五頁)と指摘しているが、その結果の一つが本書であるとも言える。
『義認の教理に関する共同宣言』の日本語訳が、二〇〇四年一〇月三一日に出版される際に(教文館)、教皇庁キリスト教一致推進評議会議長であったカスパーは、「日本語版への序文」を寄せているが、その中で「私は『共同宣言』の日本語訳を大きな喜びをもって歓迎したいと思います。日本のキリスト者が、到達した合意を自分の言葉で学ぶことができるようになるからです。神学校、神学部や教会で、神学生も司祭・牧師も教会信徒も到達したことについて、また、まだ残されている課題について理解を深めることができるでしょう」と書いている。カトリックのエキュメニズム部門の最高責任者だったカスパーが、ルーテル教会との対話に熱心だった背景には、無論、本書で明らかにされている「エキュメニズムの視点から見たマルティン・ルター」の理解がある。
本書は小さい割にはなかなか贅沢である。訳者は日本のカトリックの代表的な神学者高柳俊一・上智大学名誉教授、また巻末に置かれた「W・カスパー枢機卿『マルティン・ルター』を読む」という解説文を寄せているのは、ルター研究の第一人者の一人、徳善義和・日本ルーテル神学校名誉教授である。
カトリック教会によるルター理解がここまで進んだのかという感慨をもって本書を読み終えた。
(すずき・ひろし=ルーテル学院大学ルター研究所所長)
『本のひろば』(2017年5月号)より