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内容詳細
キリスト教の伝道のあり方を問い直す!
欧米と全く異なる文化と伝統をもつ地域において、福音はどのようにして伝えるべきか? 東南アジアで宣教活動と神学教育に携わった著者による、アジアの諸宗教の特質と自身の体験を踏まえた斬新な提唱!
[目次より]
第1章 十字架と弁当箱/ 第2章 「神の弱さと愚かさ」によって捉えられた精神
第3章 運ぶに便利な把手はついてない/ 第4章 眉が剃り落とされた顔
第5章 「聴け、イスラエルよ……」/ 第6章 シェマアの民とイエス・キリスト
第7章 神の指は人目にわかりやすい指し方をしない/ 第8章 唾を吐きかけられたイエス・キリスト
第9章 キリスト教は歴史を気遣う宗教であろうか/ 第10章 復活に与った精神
小山晃佑(こやま・こうすけ)
1929年東京生まれ。米プリンストン神学校で哲学博士号を取得し、日本キリスト教団の宣教師としてタイに派遣される。その後シンガポール(東南アジア神学大学院)、ニュージーランド(オタゴ大学)で教鞭をとり、80~95年ニューヨークのユニオン神学校のエキュメニカル神学教授を務めた。2009年逝去。邦訳された著書に『水牛神学』『富士山とシナイ山』(教文館)などがある。
森泉弘次(もりいずみ・こうじ)
1934年東京生まれ。青山学院女子短期大学名誉教授、ユネスコ所属日本翻訳家協会理事。A. J. ヘッシェル『マイモニデス伝』(教文館)にて日本翻訳出版文化賞を受賞。ほかに著訳書多数。
書評
斬新な表現で現代の神学思想に挑戦する
深田未来生
いくつかの点で、一九七七年出版の本著の翻訳が四〇年近く経った二〇一六年に出版の日を迎えることは興味深いことである。一つに著者小山の本著以降の著作はすでに出版されていること、第二として小山が死去してすでに七年の年月が流れていることである。私がこの出版に注目し、喜びに堪えないのは、一九七七年(SCM・キリスト者学生運動出版局)にこの本を手にし、私はすぐにプリントを作成し、同志社大学神学部の英書講読のクラスでテキストとして用いたからである。学生はまず題の翻訳に戸惑ったようで、私は十数年間の小山の友人、またアジアにおける神学教育の同僚として彼の人物像を語り、英書の講読を進めたのを思い出す。原題、すなわち『十字架には把手がついていない(No Handle on the Cross)』は神学書の題らしくないと学生たちは感じたようであったが、読み進むうちに小山の深い神学的洞察が青年たちに強い刺激を与えているのを感じ取ることができた。
小山晃佑(一九二九─二〇〇九)は日本人である。アジア人であり、また少々大げさに聞こえるかもしれないが世界人である。しかし彼を神学者として取り上げるとき、小山はどのカテゴリーにも当てはまるし、同時にすべてに足場を持つ背景と力を持つことによりユニークである。しかし、この幅広さがゆえに、特に日本において小山の神学的視座や洞察は十分に評価されてこなかったのではないかと思うときがある。言い換えるとその神学的・思想的スケールにおいて日本の神学界には馴染みにくい面があったのかもしれない。それが、本著の原題がある人たちには奇異に響く原因かもしれない。
日本の神学界に小山を評価することに積極的ではない側面があるのは、彼の主要な著作はすべて英語で出版されていることも一つの原因であろう。そして彼の描写的表現は英語では極めてカラフルで雄弁なのだが、日本語訳に取り組む人には困難が伴ったのではないかと推測する。しかしまた、彼の講演や説教を聞いたキリスト教信徒たちは繰り返し感動し、また信仰を刺激され強められたのを私たちはどう理解したらよいのだろうか。小山の信仰の背景であるキリスト同信会(プリマス・ブレズレン)の修養会や研修会は繰り返し彼を招いている。
さて、その小山が神学する土壌は太平洋戦争終結後の混沌から脱皮しようとしていた日本から始まった。そしてプリンストン神学大学から博士号を取得し、結婚後日本基督教団宣教師として派遣されたタイでの神学教育者としての働きと周辺地域での伝道活動は全く新しい、刺激的土壌を彼に提供した。『水牛神学』(一九七四年出版、邦訳=教文館、二〇一一年)は彼の神学に画期的広がりを示している。そして二年後に本著が出版されたのであった。その間、彼はシンガポールでの東南アジア神学大学院および東南アジア神学校連盟の責任を果たし、ニュージーランドのオタゴ大学教授として転任している。
本著はその原題だけに注目すると神学書とは思えない。そういうならば小山の著作の題は日本語、英語を問わず意表を突くようなものが多く、神学の「匂い」が薄いといえよう。しかし、内容は極めて深く現代世界、社会情勢、そして聖書のメッセージと主張を鋭く捉えて関連させ、斬新な表現で現代の神学思想に挑戦するのである。同時に表現は斬新でも小山には神学、キリスト教信仰、また教会の伝統を軽視しない謙虚な真理探究の姿勢が顕著である。それは一概に彼の神学が保守的だとか、正統路線的だということではない。彼の神学的スタンスは今、ここに生きる人間、社会的・文化的環境や情勢の真っただ中でキリストを見出して、そのキリストの姿と指針を描き、論調を明確化することにあるといえる。そういう意味でこの一冊は新鮮な、優れた神学書なのである。
一言、翻訳に触れておく。小山の英語の生き生きとしたスタイルを日本語に訳すのは極めて困難なだけに、本著の翻訳者の努力に敬意を表しておきたい。
(ふかだ・みきお=同志社大学名誉教授)
『本のひろば』(2016年11月号)より