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内容詳細
なぜ憧れの言葉が神学の言葉にならないのか?
戦後ドイツの霊的閉塞感が漂う教会に、神の言葉の神学を継承しながらも、聖霊論的なパースペクティヴによる新しい実践神学の道筋を指し示した画期的な書。芸術家としても活躍したボーレンによる実践神学の体系的基礎論。名著『説教学』の続編。
「教会は美しくなるべきである。正しく美しくなるべきである。そして、実践神学への手引きは、美しさに対する使徒的な情熱を呼び起こすことができるのである──。」(本文より)
【目次】
読者に宛てて
第一章 導入のためのふたつのテーゼ
第一節 課題
第二節 関係する実践諸領域について
⑴まず第一に問われるのは神学者ではないか
⑵神学
⑶教会
⑷世界
第二章 聖霊論の地平における実践神学
第一節 この地平についての黙想
第二節 三位一体論の意味
⑴キリスト論にとっての三位一体論の意味
⑵創造論にとっての三位一体論の意味
⑶聖霊論にとっての三位一体論の意味
第三節 神が小さくなられること
第四節 神律的相互関係
第五節 一人ひとりに、そしてすべての者に与えられる賜物としての霊
第三章 神学的美学としての実践神学
第一節 神学的美学
⑴創造のわざにおいて神は美しくなられる
⑵神は文化と芸術において美しくなられる
⑶歴史において神が美しくなられる
⑷教会において神が美しくなられる
第二節 知覚としての神学的美学
第三節 形成としての神学的美学
第四節 芸術としての教会──教会としての芸術?
第四章 実践神学とその問題・実践──すなわちシュライアマハーと終わりなきことについて
第一節 聖職者と信徒の対立という緊張関係領域における神学
第二節 学と実践との間の緊張関係における実践神学
第三節 シュライアマハーの遺産・実践神学の未解決の問題
⑴実践神学に対する神学的な低評価
⑵実践可能なものを退け
⑶反作用としての経験
⑷未解決の問題としての実践
第五章 芸術としての実践神学、そして学としての実践神学
第一節 芸術としての神学、学問としての神学、そして大学におけるその位置付け
第二節 他の神学的な諸科と争い、また交わりをする実践神学
第三節 諸学と争い、また交わる実践神学
第四節 実践の詩
訳者あとがき
書評
ボーレンによる実践神学の体系的基礎論
小泉 健
待ちに待った書物が登場した! 以前から本書のタイトルを知り、邦訳を待ち望んでいた人も多いのではないだろうか。幻の名著をついに日本語で読めるようになった!
原書が一九七五年に刊行された後、ボーレン教授は一九七九年に日本(そして韓国)を初めて訪問している。その際に語られた言葉のうちから、二つの説教と三つの講演を選んで邦訳されたのが『聖霊論的思考と実践』(日本基督教団出版局)の前半部分である。そして同書の後半には、ボーレン教授と五人の日本人神学者たちとの神学的対話が記録されている。その対話の土台となっているのは、神学的美学についてのボーレン教授のテーゼ群であり、さらにその前提となっているのが本書『神が美しくなられるために』であった。この対話を読みながら、本書を読みたい、そして自分自身もこのような神学的対話に入っていきたいと、焦がれるような思いを抱いたものであった。
原書が刊行されてから四十年、『聖霊論的思考と実践』によってその一端を知らされてから三十五年、待ち続けてきた本書の刊行を共どもに喜びたい。
ボーレン教授の聖霊論的な神学、「神律的相互関係」のことなどについては、わたしたちは前記の『聖霊論的思考と実践』や『説教学I』(日本基督教団出版局)の第四章などから知ることができる。そのことが本書においては第二章「聖霊論の地平における実践神学」で改めて論じられている。
二〇世紀後半以降の実践神学は人間の経験を重視し、経験科学に接近した。あるいは倫理学を土台とするようになった。それによって教会の、さらには社会の具体的な諸課題に対して、いかに「実践的に」関わることができるかを示すことができると考えられた。しかしそこで見失われてしまうのは、神の実践である。実践神学は「神が実践的になられる」ことを考察するものでなければならない。ボーレンはこの点において、神の言葉の神学を継承する。しかし同時に、実践神学が教義学に解消されてしまわないためには、人間の実践が位置づけられなければならない。それゆえにボーレンにおいて、実践神学は「聖霊論から始まり、聖霊論を目指して」思索されることになる。
このことは決定的な重要な貢献である。経験を重視する実践神学は、結局過度に倫理化し、非神学化していくことになった。あるいは、シュライアマハーの場合は、具体的な実践とは区別された実践の理論が展開された。そのどちらの道も取らず、生きた教会の「実践」のための学でありつつ、しかも神ご自身の実践を考察する「神学」でもあることは、ほとんどありえないような稀有の道を行くことなのである。
「神が実践的になられる」ことを、さらにボーレンは「神が美しくなられる」と言い換える。
「神はその臨在において、われわれにとって美しいものとなられるのであり、それ ゆえにわれわれはわれわれ自身の今この時において、神に対して既に美しくなるので ある」(一八頁)。
これが本書の基本的なテーゼの一部であり、タイトルの由来ともなっている言葉である。そして、誤解やつまずきを引き起こしてきたし、引き起こし続けるであろう言葉でもある。
しかし「美」とは倫理的なものではなく(それも含むだろうが)、むしろ上述のとおり、倫理的な実践を乗り越えるための概念である。伝統的な概念を用いれば、神の「栄光」であり、人間の「聖化」である。しかも両者は関係している。「美」という概念を用いるのはそのためでもある。神が美しくなられ、その美を知覚し、神を喜ぶとき、わたし自身が、神を美しいと知覚し、神をほめたたえる者へと変えられ、つまり美しくなっている。そして神の輝きを照り返すようにして、神と共に行動する。世界と教会を形成(造形)するのである。
本書はボーレン教授の深い理解者である訳者からの日本の教会への貴重な贈り物である。熟読によってその労苦に応えたい。
(こいずみ・けん=東京神学大学准教授)
『本のひろば』(2016年4月号)より