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内容詳細
罪人がどうして義なる神の前で受け入れられるのか?
(Wie kriege ich einen gnadigen Gott?)
宗教改革の最大の争点であった義認論をめぐって、ルターが従来の「栄光の神学」から「十字架の神学」へと至った道筋を、中世末期の神学的背景に照らして検証。宗教改革思想の知的・霊的潮流を最新の歴史的・神学的研究をもとに分析する画期的な試み。福音主義的信仰を理解するために必読の書。
【目次】
謝辞
略号
序
第一部 背景、中世後期の神学者としてのルター(1509─1514年)
第一章 ヴィッテンベルクでの宗教改革の夜明け
中世後期という背景
キリスト教思想における「義認」概念
教会の改革と霊性の刷新
九五箇条の提題
この研究の重要性
第二章 ヴィッテンベルクにおける宗教改革の源流
──人文主義、唯名論、アウグスティヌス的伝統
ヴィッテンベルクにおける「ヴィア・モデルナ」と「ヴィア・アンティクワ」
新しい思想体系か、ヴィッテンベルクにおける「ヴィア・グレゴリイ」
ルターとアウグスティヌス修道会
人文主義、ヴィッテンベルクにおける人文学研究(studia humanitatis)
唯名論、ヴィッテンベルクにおける「ヴィア・モデルナ」
契約上の因果関係という観念
アウグスティヌス的伝統、ヴィッテンベルクにおける新しいアウグスティヌス学派か
第三章 中世後期の神学者としてのルター
『詩編講義』(Dictata super Psalterium)
ルターの聖書釈義、1513年から1514年
ルターの神学的突破の時期をめぐる論争
第二部 突破、変わりゆくルター(1514─1519年)
第四章 驚くべき新たな義の定義(Mira et nova diffinitio iustitiae)
──ルターによる神の義の発見
中世後期の神学に照らして見たルターの困難
憐れみと恵みの約束に対する忠実さとしての「神の義」
神がそれぞれの人に当然与えられるべきものを与えること(reddens unicuique quod suum est)としての「神の義」
神学的「契約」(Pactum)と実存的不安
「神の義」と「信仰の義」
詩編70(71)編と71(72)編のルターによる注解
「ヴィア・モデルナ」の救済論とのルターの決別(1515年)
ルターによるアリストテレス批判の性格と意義
ルターの神学的突破の性格と時期
第五章 十字架だけがわれわれの神学である(Crux sola est nostra theologia)
──十字架の神学の出現、1514年から1519年
ハイデルベルク討論(1518年)と「十字架の神学」
ルターの「十字架の神学」の主要主題
「神の義」と「十字架の神学」
神をめぐる類比的言語の批判としての「十字架の神学」
「十字架につけられ、隠された」神
信仰、懐疑、試練(Anfechtung)
ルターの神学的発展、1509年から1519年、要約
参考文献
訳者あとがき
索引
《著者》
A.E.マクグラス(Alister E. McGrath)
1953年生まれ。1978年に分子生物学で博士号を取得後、オックスフォード大学で神学を修める。同大学神学部歴史神学教授退任後、2008年よりロンドン大学キングス・カレッジ教授、神学・宗教・文化センター長を務める。
著書 『キリスト教神学入門』『宗教改革の思想』『キリスト教の将来』『十字架の謎』『キリスト教の霊性』『科学と宗教』『神の科学』『ポスト・モダン世界のキリスト教』『プロテスタント思想文化史』『「自然」を神学する』『憧れと喜びの人 C. S. ルイスの生涯』(以上、教文館)、『神学のよろこび』『キリスト教神学資料集』『キリスト教思想史入門』『総説キリスト教』(以上、キリスト新聞社)ほか多数。
《訳者》
鈴木 浩(すずき・ひろし)
1945年、静岡県生まれ。日本ルーテル神学大学、日本ルーテル神学校卒。米国ルーサー・ノースウェスタン神学校大学院博士課程修了。神学博士(教理史専攻)。
訳書 J. ペリカン『キリスト教の伝統──教理発展の歴史』(全5巻、教文館、2006─08年)、J. ゴンサレス『キリスト教神学基本用語集』(教文館、2010年)ほか。
書評
ルターの義認論はどのように発展したのか?
加藤喜之
宗教改革の五〇〇周年が来年に迫っている。このようなタイミングで、マルティン・ルターの神学の変遷を詳細に追った本書が翻訳されたのは非常に喜ばしい。
著者のアリスター・マクグラスは、オックスフォード大学の教授である。これまで彼が扱った主題は多岐にわたり、宗教改革の神学や自然科学と宗教の関係、そして最近ではC・S・ルイスの伝記がある。その著作の多くは日本でも翻訳されてきた。本書はルターの義認論についての博士論文を基にした彼のデビュー作だ。初版は一九八五年に出版されており、その後二〇一一年に改訂された。本書はその第二版の翻訳である。
本書でのマクグラスの目的は、ルターが独自の義認論と十字架の神学にたどりついたプロセスを歴史的に明らかにすることにある。そのために第一部(一─三章)では、中世後期の文脈のなかにルターがおかれ、第二部(四─五章)では、この文脈からの神学的な突破が描かれる。なかでもとくに彼の聖書注解に重点が置かれている。
では中世の文脈とはどのようなものだったのか。最初の二章で、中世後期の社会やヴィッテンベルクにおける人文主義と唯名論といった背景が丁寧に描かれていく。だが重要なのは、当時の神学者たちが議論していた「いかにして人間は絶対的に聖なる神の前で義とされるのか」という問いだ。この問いにたいして、オッカムのウィリアムやガブリエル・ビールら中世後期の唯名論者たちは、神と人間の契約(pactum)をもって答えている。それは、人間が罪人でありながらも人事を尽くすことによって、たとえその行いが神の前に完全でなくとも神は完全なものとして受け入れるというものだ。
第三章でマクグラスは、ルターも『詩編講義』(一五一三─一五年)のなかでこのような唯名論の立場をとっていたという。ただしルターはビールのような唯名論者とは違い、行いではなく信仰を重視していた。だがこの考えもアウグスティヌス修道会の霊性の影響とみなすことができ、この時点でのルターはまだ改革につながるような「突破」を提示できていない。
ではどのようにルター神学の転換は起きるのだろうか。第四章でマクグラスは、この転換が詩編講義の最終段階(一五一五年)で起きたと論じる。それまでルターは神に義と認められるために信仰が不可欠であると論じていたが、この時から信仰さえも人間のものではなく、神から与えられると理解するようになるのだ(二二二頁)。
このような理解をもとにルターは『ハイデルベルク討論』(一五一八年)にみられるような「十字架の神学」を展開していった。これが最終章の第五章で論じられる。ルターによると、神によって与えられた信仰が示すものはキリストの十字架であった。十字架を見上げることによって人間は自分の苦しみのうちに神が働くことを理解できる。さらにキリストが十字架にかけられることによって、キリストの義が人間の義となる。マクグラスによると、これこそがルターの理解したキリストによって与えられる神の義なのである(二七〇頁)。
本書はマクグラスの著作のなかでもとくに専門的なものであり、訳者の苦労は相当なものであったはずだ。扱っている主題が難解なこともあり、表現が晦渋になるのはやむをえない。だがときに疑問に思う訳もみられた。たとえば八〇頁の「思想家を指す」は「思想家にとって」で、一二八、一三〇頁のanagogicalは「寓意」ではなく「天上的」だろう。
大きな歴史の転換期においてその触媒となったルター神学の発展を理解することは、これまであまり明らかにされてこなかった中世後期から近世への思想的な移行の一端をみることでもある。そのため宗教改革の五〇〇周年が迫る今、本書がキリスト者や神学徒にとどまらず広く読まれることを期待したい。
(かとう・よしゆき=東京基督教大学神学部助教)
『本のひろば』(2016年4月号)より