四国・北陸・東京で40年以上にわたり堅実な伝道・牧会をしてきた著者が贈る渾身の「日本伝道論」全3巻。伝道途上国・日本における新しい宣教学の構築を目指した革新的な論考。牧師と信徒が共に学び、語り、祈り合うための最良の手引き。第2巻では、「喜ばしい知らせ」である十字架と復活の福音の内実を学ぶ。
本書は「日本の伝道を考える」と題された三部作の第二巻目である。ここでは、そもそも伝えるべき福音とは何であるのかが問われている。福音が喜びのおとずれであるのだとすれば、それを隣人に伝えたいと願うのは当然で、そこに熱意が湧かないのだとすれば、救いの確信が持てていないせいなのではないかと著者は問う。だからこそ、なぜ福音が喜ばしいおとずれであるのかを明らかにしなければならない。福音とは恵みの選びである。それは信仰義認の徹底化である。予定論の前提として「神が神であって、初めて人間は人間でありうる」という神と人間との不可逆的順序が確認されねばならない。私は救われているのか、誰が救いに与るのかといった議論は、みなこの前提を見失っている。恵みの選びとは、人間の側から考えられた論理ではなく、主体である神の側からの論理である。誰が救われるかは、終わりの日までただ神だけがご存じであるので、不可知論に留まるところからしか、正しい認識は得られない。したがって、神は永遠の昔から一方を選びへ、他方を滅びへと選んだという二重予定説も、また神は結局すべての人間をお救いになるはずだという万人救済説も、共に誤りである。選びの信仰においては、ただ聞いて信じる信仰が唯一の正しい対応であり、神への信頼において自分の選びを確信することが福音信仰の神髄なのである。著者は、この確信が日本のキリスト者に最も欠けているものだと見ている(二六頁)。この恵みの選びの信仰をしっかり確立するところから伝道への熱意が生じる。隣人が救われることもまた、天にある大きな喜びに与ることだからである。そこからまた信仰の継承、さらには教会が神学校を支えるという光栄ある務めも生じると述べられる。
福音とは何かという本書の主題にとって中心となっているのは、それが和解の福音であるということである。そこには、単なる個人の救いのみならず、世界の救いという次元も含まれている。罪の赦しを喪失したキリスト教はヒューマニズムでしかなく、逆に神の国の視野を失った福音は、個人的次元で自己完結してしまい、救済史の成就、伝道への召命、社会への関心などをすべて失っている。その両次元が重要なのである。
人間の罪はイエス・キリストの十字架から明らかになるのであるが、すでに創世記三章では物語という形をとって、すべての人間が神と等しく善悪の基準を持とうとする過ちについて語られている。罪とは、神の愛への不信頼または不信仰であり、神に代わって善悪の最終的な審判者になろうとすることである。原罪という概念は、堕罪が全人類にあまねく起こった出来事であることと、一人ひとりの全存在を汚している深い病根であることを表している(四六頁)。神はこの耐えがたい罪の呪いを忍耐をもって耐え忍んでこられたが、ついにキリストによる贖罪の出来事によって、神自らが義となり、かつ御子を信じる者を義とするに至った。仏教は生老病死の四苦を教えるが、その根源に罪があることは教えない。それを教えるのがキリスト教である。それは、神の御子が罪の責任を負うこと、その罪の結果を代理的に引き受けることを通して行われたのである。
近代の主観的贖罪論、中世の客観的贖罪論に対して、古代教父の再発見となった宗教改革的な刑罰代償説が推奨される。評者自身はそのほかの系譜も含め、さらに広範に考えているが(『救済の物語』参照)、一応首肯すべき見識であろう。そのことをしっかり学ぶことが、義認・聖化・召命へ、そして教会の形成へとつながるのである。著者は最後にこの教会の伝道する業を、主の祈りを祈ることで主の御業を継承することの中に見出している。
日本に生を受け、キリスト者となった者にとって、今もってなかなか進展しない日本の伝道を考えることは、避けることのできない共通の課題である。この共通課題に正面から向き合う著者の勇気ある提言に、多くの者が耳を傾けるべきであろうかと思う。
(はが・つとむ=東京神学大学学長)
『本のひろば』(2015年9月号)より