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内容詳細

死とは何か? 救いとは何か?

豊富な臨床の知と学術的研究をもとに精神科医として活躍してきた著者が、自らの信仰的実存を賭けて「生」と「死」の諸相に迫った実践的論考8編と未発表の遺稿「キリスト教と死生学」を収録。「福音を聞かずに死んだ者の救い」にまで考察の射程を広げた希望の死生学。

「死は万人に訪れる。だから、死の宣告を受けてもうろたえてはならない。命は神が握っておられるのであり、たとえ未完了であっても与えられた使命を全うしようとすることが生の拠り所になるのである。」(「キリスト教と死生学」より)

【目次】

推薦の言葉(阿久戸光晴)
はしがき(藤掛 明)

第1部

死とは何か
人はどう死の恐怖を克服してきたか──死生学の射程
死と向き合う
信仰と愛の絆によって

第二部

葬儀への提言
宗教・死・心の病──人間の救済を求めて
自殺予防と自死遺族支援について
二次被害の回避とその留意点

附論 キリスト教と死生学──未完の完

あとがき(黒鳥偉作)

《著者紹介》

平山正実(ひらやま・まさみ)

1938年生まれ。横浜市立大学医学部卒業。自治医科大学助教授(精神医学)、東洋英和女学院大学大学院教授(臨床死生学、精神医学)を経て、聖学院大学総合研究所・大学院(人間福祉学研究科)教授、北千住旭クリニック精神科医。医学博士、精神保健指定医。2013年死去。

著書 『精神科医の見た聖書の人間像』(教文館、2011年)、『人生の危機における人間像』(2006年)、『死別の悲しみに寄り添う』(編著、2008年)、『愛に生きた証人たち』(2009年)、『とことんつきあう関係力をもとに』(共著、2010年)、『死別の悲しみから立ち直るために』(2010年)、『臨床現場からみた生と死の諸相』(2013年)、『ヘンリ・ナウエンに学ぶ』(共著、2014年)(以上、聖学院大学出版会)、『講座 現代キリスト教カウンセリング1』(共著、日本基督教団出版局、2002年)、『自ら逝ったあなた、遺された私』(朝日選書、2004年)、『イノチを支える』(共著、キリスト新聞社、2013年)、『はじまりの死生学』(春秋社、2005年)ほか多数。

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書評

実存を賭けた希望の死生学

柏木哲夫

 平山正実先生の訃報に接したとき、私の心に最初に起こった気持ちは「よく頑張られたなあ」というものであった。病気がかなり進み、痩せも目立つようになられた頃、ある学会でお目にかかった。病状の悪化にもかかわらず、先生の「こころの力」は衰えていなかった。死生学に関する先生のお考えを熱っぽく語られた。
 先生とは随分長いお付き合いであった。先生と私は多くの共通点がある。思いつくままあげてみると、
 ・年齢が近い(先生=一九三八年生まれ、私=一九三九年生まれ)
 ・医学を志した
 ・精神医学を専門にした
 ・途中で人間の死に関心を持つようになった
 ・キリスト者である
 ・大学で死生学講座をスタートさせた(先生は一九九三年、東洋英和女学院大学人間科学研究科で、私は同年大阪大学人間科学研究科で)
 この度、平山先生が生前にご自分で企画・編集された最後の本が出版された。本書には、先生が「死生学」にまつわるいくつかのテーマで執筆してこられた論文やエッセイと、先生が病床にまで原稿用紙を持ち込んで執筆しておられた未発表の遺稿「キリスト教と死生学──未完の完」が収録されている。
 先生はこれまで多くの死生学に関する著書を上梓してこられたが、本書はその集大成と言えるであろう。本書の副題に「キリスト教と死生学」とある。「死生学」という言葉は英語の〈Thanatology〉を訳したものであろう。三省堂の『新コンサイス英和辞典』でその言葉を引くと、「死亡学、死亡心理研究」とある。Thanatologyはギリシャ語の〈Thanatos, 死〉を語源とする。従って忠実に訳すならば、「死学」となる。なぜ、「死生学」と「生」が入るのであろうか。
 日本の各地に「生と死を考える会」という集まりがあり、「死」について学び、考える会で、定期的に活動している。なぜ、「死を考える会」ではないのであろうか。拙著に『生と死を支える』(朝日選書三四一、朝日新聞社、一九八七年)がある。ホスピスでの死を看取る働きについて書いたものであるが、なぜ、「死を支える」ではないのであろうか。
 確かに「死」を学問的に研究したり、考えたり、支えたりするときに、それは結局のところ、生を研究したり、生きることを考えたり、生を支えたりすることにつながる。それで、死だけではなく、生を死に寄り添わせてセットにするということがなされるのかもしれない。
 平山先生は本書の中で、このあたりのことに関する先生のお考えを述べておられる。それは「死生学」から「生死学」への提唱である(一八三頁以下)。先生はご自身の思索、苦闘、葛藤の結果として、死生学というよりも、生死学と呼ぶべきではないかとの提唱をしておられる。本書を通読して、死生学が自分の死を自覚し、死に直面して生を学ぶ学問であれば、生死学は生の中で死を学ぶことであり、私たちは今後この方向を目指すべきではないかと提案されているように感じた。将来彼の地で先生にお会いしたら、是非この点を確かめたいと思っている。
 先生は言葉を大切にされる方であった。本書のあちこちにキラッと光る言葉がちりばめられている。それらのうちいくつかを取り上げてみたい。
 ・「未完の完」
 人生を未完成のまま受け入れることができる人は神に委ねることができる人、祈りの心を持っている人であると思う。終末の床にあって完成できないことを悔いる必要はない。たとえ未完成のままであっても、神に与えられた使命を精一杯果たそうと努力したのであれば、その人の人生は「未完の完」と言えるのではないだろうか。
 ・「スピリチュアリティ(霊性)の覚醒」
 もし、後生の人々に残る精神的な遺産が死生学にあるとすれば、心の奥底に眠っている完成やスピリチュアリティ(霊性)が覚醒するきっかけとは何かを明らかにすることであると思うようになった。
 ・「存在の根拠へのまなざし」
 人間は死が迫ったときにこそ、健康な時に頼っていたものとは異なる、根源的な拠りどころ、つまり存在の根拠へのまなざしが開かれるのであろう。
 この世に生を受けた者はだれ一人の例外なく死を迎える。サマセット・モームの言葉であるが「人間の死亡率は一〇〇%である」。人間の生と死、とりわけ死に関心を持っておられる方々に本書を推薦したい。きっと新しい気づきが本書を通して得られると確信している。

 

(かしわぎ・てつお=淀川キリスト教病院理事長)

 

『本のひろば』(2015年5月号)より