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内容詳細

私は彼らから何を学んだのか?

『慰めの共同体・教会』(教文館)や『魂への配慮の歴史』全18巻(日本基督教団出版局)などで知られる著者による自伝的説教論。ルター、キェルケゴール、イーヴァント、ボンヘッファー、バルト、ボーレン、加藤常昭など、時代・地域を越えて活躍した12名の神学者との豊かな出会いと対話を通して、神の言葉を伝える喜びと説教の核心に迫る。

【目次】

まえがき

第一部 声

1 ゲアハルト・フォン・ラート もしくは、声の形成としての説教学
  (ハイデルベルク大学就任講義)
2 マルティン・ルター もしくは、福音の「口頭性」
3 クラウス・ペーター・ヘルチ もしくは、福音の響きの音色
4 パウル・ゲアハルト もしくは、讃美歌による説教と天のはしご

第二部 今日

5 ハンス・ヨアヒム・イーヴァント もしくは、時を告げる言葉としての説教
6 エルンスト・フックス もしくは、福音の言葉の出来事
7 カール・バルト もしくは、囚われている人々に解放を
8 ディートリヒ・ボンヘッファー もしくは、キリストのために旧約聖書を説教する

第三部 聞くこと

9 ルードルフ・ボーレン もしくは、第二の説教者としての聞き手
10 加藤常昭 もしくは、魂への配慮に満ちた説教の根源
11 ヘルバート・クリム もしくは、教会の心臓の鼓動また手のわざとしてのリタージーとディアコニア
12 セーレン・キェルケゴール もしくは、個人、聴衆、そして共同体
  (2005年ヨハネの日におけるハイデルベルク大学最終講義)

訳者あとがき

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書評

〈出会い〉の説教学
 
川﨑公平
 
 既にいくつかの邦訳で知られるようになった、実践神学者クリスティアン・メラーの説教論である。書名が興味深い。原題は『説教学的な裏階段』。「裏階段」という言葉はあまり馴染みがないが、著者の「まえがき」がその意味を明らかにしている。「古典的な正面階段では閉ざされたままになっている、説教と説教論のためのいくつかの部屋を開くことができる」(三頁)。
 その裏階段を、著者自身が出会ってきた一二人の神学者たちを紹介しながら、われわれに見せてくれる。悪い意味での〈教科書的な〉説教学ではない。「古典的な正面階段」から見えてくる客観的・体系的な説教学ではなく、極めて主観的な、自伝的説教論である。それだけに、おもしろい。一二人の神学者に対する著者の情念を感じるからである。
 まったくの余談だが、われわれ自身も(特に説教者は)同じように「自伝的説教論」を何らかの形にしてみればよいと思う。必ずしも他人に読ませる必要はない。自分のために書く。今の自分を作っているのは、何と言っても〈出会い〉だからである。あの先生に出会ったから。あの書物に出会ったから。だから、今の私がある。皆そう言えるはずである。ただし、単なる自伝を書き連ねてもあまり意味はない。自分に与えられた〈出会い〉の意味を、なお神学的に考察してみることが肝要である。この書物がしていることは、そういうことである。
 「そこでわたしが学んだことは、説教を説教にするのは、神の声であり、今日という時を告げることであり、聞くことだ、ということでした」(三頁)。これが本書の三部からなる構成となっている。「『声の形成』としての説教、『時を告げる言葉』としての説教、『聞くこと』としての説教」(三頁)である。この構成にも既に、著者の明確な説教理解が現れている。
 第一部「声」では旧約学者フォン・ラート、マルティン・ルター、実践神学者ヘルチ、讃美歌詩人パウル・ゲアハルト、第二部「今日」では組織神学者イーヴァント、新約学者エルンスト・フックス、カール・バルト、ボンヘッファー、第三部「聞くこと」では説教学者ルードルフ・ボーレン、加藤常昭、ディアコニア学者(奉仕学者)ヘルバート・クリム、最後にキェルケゴールが紹介される。そこで展開される叙述は、単なる自伝でもなければ、この神学者たちの説教論の紹介でもない。著者自身が、彼らとの出会いを通して、自分の説教論をどのように深めていったか、ということである。軽い気持ちで読み始めると、少し面食らうかもしれない。これは、メラー教授自身の「説教学」の書物なのである。読みこなすのに苦労するところもあるかもしれない。「訳者あとがき」を読むと、興味のある章から読むのもよいと言いながら、たとえばこういう順序で読んだらどうか、というアドヴァイスを得ることができる。
 個人的な感想を言えば、私自身が最もおもしろく読んだのは、第二部のエルンスト・フックスの章である。著者の恩師でもあるフックスは、「テキストから、どうしても説教をしなければならないという欲求が生まれてきて初めて、新約聖書テキストの解釈のための歴史的・批判的な方法は、その奉仕を果たしたのである」という発言によって、多くの誤解を引き起こしてしまったと言う。その誤解を解きつつ、聖書を読むとはどういうことか、説教するとはどういうことかを明らかにしていく著者の言葉には、熱がこもっている。聖書の言葉は、説教されたがっているのである。またそれが、第二部の「今日」という部分に収められていることにも、多くのことを考えさせられる。「今日」という言葉は、むしろイーヴァントから学んだものではないかと思うが、メラー教授の説教論のひとつの核にもなっている。神は、今日、お語りになりたいのである。
 最後に、たいへん読みやすい翻訳で、良書をわれわれに紹介してくださった訳者の労苦にも、心から感謝したい。
 
(かわさき・こうへい=日本基督教団鎌倉雪ノ下教会牧師)
 
『本のひろば』(2015年6月号)より