税込価格:4180円
購入サイトへ 問い合わせる
※在庫状況についてのご注意。

内容詳細

東洋の精神的志向性とキリスト教信仰は両立できるか?

ユニークな宣教のアプローチにより欧米でのキリスト教理解に幅広い影響を与えた著者の代表作。神道・仏教・儒教などの影響下に展開されてきた日本文化への批判的考察を通して軍国主義・人種差別・冷戦構造を克服する福音の核心を示す。

 

[目次より]

第1部 町々はことごとく主の前に主の凄まじい怒りの前に廃墟と化した (エレミヤ書4章26節)

第2部 わが助けは天地を創造された主より来る (詩編121編2節)

第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない (出エジプト記20章7節)

第4部 わが心激しく動かされ、憐れみこみあげて断腸の思い (ホセア書11章8節)

 

  ■著者紹介 小山晃佑(こやま・こうすけ)

1929年東京生まれ。米プリンストン神学校で哲学博士号を取得し、日本キリスト教団の宣教師としてタイに派遣される。その後シンガポール(東南アジア神学大学院)、ニュージーランド(オタゴ大学)で教鞭をとり、80~95年ニューヨークのユニオン神学校のエキュメニカル神学教授を務めた。2009年逝去。邦訳された著書に『神学と暴力』『水牛神学』(教文館)などがある。

 

 

■訳者紹介 森泉弘次(もりいずみ・こうじ)

1934年東京生まれ。青山学院女子短期大学名誉教授、ユネスコ所属日本翻訳家協会理事。A. J. ヘッシェル『マイモニデス伝』(教文館)にて日本翻訳出版文化賞を受賞。ほかに著訳書多数。      

在庫表示は概要となります。詳しくは「問い合わせる」ボタンから直接出版部にお問い合わせください。

書評

今も新鮮に響く鋭い批判

松本敏之

 「ついに出た!」。原著出版(一九八四年)から三〇年の時を経て、世界で恐らく最も有名な日本人神学者であった小山晃佑の主著にして、歴史的名著の日本語版の登場である。小山の死からもすでに五年が経過した。筆者は、ニューヨークのユニオン神学大学において、小山から直接薫陶を受けた日本人の一人として、訳者の森泉弘次氏に心から感謝の意を表したい。
 全体は四部に分かれ、それぞれ、エレミヤ四・二六、詩編一二一・二、出エジプト二〇・七、ホセア一一・八が、モチーフの聖句として掲げられている。各部ほぼ五章ずつ、全部で二〇章の構成となっている。
 この書物には、三つの視座がある。第一は、小山の少年時代の戦争体験である。東京大空襲と広島・長崎の原爆投下。それは果たして日本に対する神の裁きであったのかと問う。小山は天皇を頂点にした国家神道と軍事政権を批判的に検証しつつも、空爆をしたアメリカの罪も見逃さない。
 第二は、アジアの宗教との対話による視座。『富士山とシナイ山』という書名がそれを象徴する。その視座は、タイ、シンガポールなどで神学教師を務めた経験によって培われたものであり、『水牛神学』(邦訳は二〇一一年に教文館から刊行)に遡る。さらに、日本の古代から現代までの思想も縦横無尽に描かれる。それらは英語圏の読者を想定して書かれているが、日本人にとっても新たな発見に満ちている。小山は、仏教がどういう宗教であるかを紹介し、尊敬すべき宗教であることを力説する。仏教学者は小山の仏教理解をどう評価するか、日本語版の出版を機に、対話の輪が広がればと思う。
 第三は、ニューヨーク市民としての視座である。執筆当時のレーガン政権の軍事大国化路線、またそれを容認し支持するキリスト教界と神学を批判する。「われわれも軍事力という、核爆弾という偶像の前で香を焚き、生け贄を献げ、頭(こうべ)を垂れて、礼拝している。この偶像が国家の政策を指図している」(二六六頁)。
 さてこの書物は、小山の著書の中では最も体系的なものであるが、それでも一般の組織神学的な展開の仕方ではなく、小山の他の著書同様、聖書黙想的である。先述の聖句を始め、幾つかの聖句がモチーフとして繰り返され、それと対話するように思索が深められる。あたかも循環形式の音楽のようだ。
 小山は、「神学は、人間の貪欲との闘いについての仏陀の教えと......イスラエルの神の激しく動かされる心とを、かかわらせる課題と取り組まなければならない」。それは「当惑させるような曖昧さの領域」「一種の周縁」であるが、「神学は、周縁にまで赴いたキリストに従って周縁にまで行かねばならない」と言う。そして「わたしは二者の神学的架け橋となる思想を示唆するつもりである」(三八二頁)と神学的決意表明がなされる。
 そのような思索から、今日のわれわれにとって偶像とは何かを示しつつ、それを批判していく。そして小山流の「十字架の神学」から、キリスト者が生きるための四つの大事なポイントを示す(三八四頁以下)。その第一は、「破壊ではなく創造を擁護する」ということである。「絨毯爆撃による荒廃地ではなく人間が暮らす世界を、死ではなく生を、敵意ではなくもてなしの心を、残忍ではなく憐れみを擁護する」。第二は、「われわれが世界とわれわれの運命について最終決定的な言葉を持っていない」ということ。そこで自己栄化から謙遜へと向かわされる。第三は、「多くの神々(偶像)が現存していることに気づかせてくれる」ということ。「皮膚の色で差別する神、知的能力の神、良い収入の神、大砲とミサイルの神など──われわれにとってたいへん魅力的な神々がいる」。第四は、「われわれの神は熱愛の神である」と述べた上で、「周縁へ赴くことによって中心性を確立したキリストこそキリスト教的社会認識およびキリスト教倫理の源泉である」と締めくくる。
 中央志向で周縁に無配慮な神学、戦争を否定できない神学に対する小山の鋭い批判は、今も新鮮に響く。右傾化する現代日本にあって、今こそ、私たちは小山から学ばなければならない。

(まつもと・としゆき=日本基督教団経堂緑岡教会牧師)

『本のひろば』(2015年3月号)より