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内容詳細

卑近な地平から構築された、今までにないカトリック論!

青年時代に教会を離れた著者が、老年期を迎える今、信仰への回帰を試みた「告白」の書。神存在の矛盾を説く科学者の友人への反駁を通して、実存的関心に基づいた「自分自身のためのカトリック」論を大胆に展開する。荒削りながらも奇想天外な飛躍と着地を見せる、痛快で型破りなエッセイ風神学通論! 【目次より】 第1篇 神 第2篇 人間 第3篇 イエス・キリスト 第4篇 聖書・伝承 第5篇 終末 第6篇 教会 ◆著者紹介 藤原 治(ふじわら・おさむ) 1946年生まれ。東京大学法学部卒。慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了。 2004年電通総研社長兼電通執行役員に就任、06年退社。経済同友会幹事、筑波大学大学院客員教授などを歴任。 著書に『ネット時代 10年後、新聞とテレビはこうなる』(朝日新聞社)、『広告会社は変われるか』(ダイヤモンド社)、『人は60歳で何をしたか』(文藝春秋)。  

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書評

実存的関心に基づいたカトリック論

山岡三治

 晩年にカトリックに回帰した一信徒による体系的神学の手引き

 団塊の世代に属する著者は、かつてミッション校在学中に洗礼を受けたが、その後多様な価値観に出会い、カトリックを無視して生きるようになった。広告会社に就職して十分活躍し、ベストセラーも著し、会社役員も務めていたが、なぜか定年前に退職して一心不乱に読書をし始めた。それは人生の終わりを意識し始め、カトリックに戻ったことが背景にあるのだろう。その心の変化については、論理を主としている本書にも垣間見ることができる。たとえば、著者は近年よく売れた『ふしぎなキリスト教』などには関心をもてなかった。なぜならそれらは知識としての宗教の扱いにすぎず、生き様を含めた実存をかけて語られていないからである。
 まず著者は『死論』を著し、それを高校時代の友人T医師に送ると、彼から長文の返事がきて、おもに四つのキリスト教批判があった。当時の著者は答えるすべがなく、大変に動揺したのであるが、それに答え、また自分も深く納得しようとしたのが本書である。
 しかし、最後の部分の第六篇「教会」における教皇庁などの組織やスキャンダルなどの扱い方は、情報をよく収集しているにもかかわらず、問題点を軽く指摘するにとどめている。なぜならば──著者自身も言っているように──基本的教義と信仰のテーマを論理的に追求することに比べれば、それらは二次的なものに過ぎないからである。評者の印象からすれば、著者とその友人T医師もミッション校出身らしく真摯で学問的であると感じた。

 四つの問い

 友人Tからのキリスト教へのおもな疑問は以下である。
 一、神が全能なら、背かない人間を初めから創っておけばよかったのでは?
 二、神に背いたのはアダムとエバだけであって、その子孫には罪はないはずなのでは?
 三、その原罪をぬぐうために神が人間の形をとって、磔の刑にあって、罪を贖わなければ許されないとは神はこれまた度量の少ない存在ではないか? また、磔の刑など、非常に古代的な考えでしかないのでは?
 四、人間の犯した罪を許してもらうには、人間が生贄となったのでは、位負けがするので、神自身でなければならない。故にイエスは神であるという理屈は正しいのか?

 カトリックの上にたった教理の説明

 著者は、プロテスタントの教義は多様なので、「一本にまとまっている」カトリックの教義を扱うことにしたとのことであるが、内容を見てみると、神論や創造、罪や悪、自由、三位一体やキリスト論など、カトリックとプロテスタントに共通しているオーソドックスな議論も多い。ただし古今の数々の読書の成果からの視点があるところが興味深い。
 説明の順序についてみれば、『カトリック教会のカテキズム』(一九九二年)にあるような信仰告白からでなく、またカール・ラーナーの神学基礎論『キリスト教とは何か』(一九七九年、邦訳・一九八一年)にあるような、「福音の聞き手である人間とその自由」などで始めるわけでもない。
 むしろ神の存在証明から始める。第一篇「神」における神の創造の章や第二篇「人間」の部分で頻繁に出てくるテーマは進化論である。進化論は今は公式に──条件つきではあるが──容認されている。ただし神の創造が働くところも見失わない。神の全能と原罪の章では、引き続き進化論が扱われ、テイヤール・ド・シャルダンが前章と同様に紹介されている。
 また、人間が背くことがわかっていたのに何故創造したかの議論では、神の正しさは背きによって人間が自由を得ることができるようになるためであったことにある、とする。背かない人間は「神のおもちゃ」にすぎない。また原罪についてはラーナーを引用し、「最初の人間の罪に関する記述は、むしろ人間が自分の実存的かつ救済史的状況を経験して、ここから説話風に、過去に遡って説明したものである」(『キリスト教とは何か』)を採用している。
 本書はこのような論法でカトリック神学全体の詳細な入門にもなっているし、議論に応じてトマスはもちろん種々の小説も含めた多くの文献を引用している点で、現代的アプローチを考えるためにも有益であると思える。

(やまおか・さんじ=上智大学教授)

『本のひろば』(2014年12月号)より