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内容詳細

礼拝と文化の対話 これからの礼拝は、いかなるものを目指すのか? 礼拝の中心的な事柄とは何か? そして、それは文化とどのように関わるのか? 多様化する文化との出会いと対話を通して、これからの礼拝刷新を考察した、礼拝学の世界的権威による来日講演集。

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書評

礼拝を考える上での問題を提起する

越川弘英

 本書は日本福音ルーテル教会の式文委員会の招きにより二〇一一年に来日した米国ルター派の礼拝学者レイスロップ氏の講演、説教などをまとめた著作である。近年、同教会では式文改訂作業が進行中であると仄聞するが、本書はその中から生まれた成果のひとつということであろう。本文の構成は、「序文」を別として、「二十一世紀の礼拝──文化との出会い」、「礼拝の中心」、「礼拝のオルド(Ordo)」、「オルド──東洋と西洋の対話」、「司式とは」、「保護と批判・ルターの遺産」、「説教」(二編)という項目から成っている。編訳者によると、「オルド──東洋と西洋の対話」をのぞき、すべて独立した講演及び説教として行われたものであるという。
 最初の講演は本書の表題ともなっているもので、今後ますます重要性を帯びていくと思われる礼拝と文化の関係について論じている。明治期以来、日本における礼拝そしてキリスト教と言えば、日本的な伝統文化に対して対決的な姿勢をもって臨むのが通例であった。近年では「土着化論」から始まって「文化脈化」(エンカルチュレーション)など、文化と礼拝をめぐる考察もなされるようになってきたとはいえ、まだまだ緒に就いたばかりと言ってもよい状況である。今日の礼拝の刷新においてこうした課題が避けて通れぬテーマであることを語る著者の発言を私たちはきちんと受けとめなければならないだろう。
 第二講演は、文化という多様で可変的な現実との出会いを意識すればするほど、それと同時に礼拝の本質や原点を再確認することが必然となることについて論じている。
 この議論を受けて第三講演は礼拝の本質を表現する「オルド」(順序を意味する「オーダー」のこと)について、二世紀のユスティノスにまで遡って解説する。著者は古典的聖書的オルドを示しつつ、「日本における礼拝刷新は(中略)常にオルドとその根拠をもう一度学び、新たな明瞭さにおいて私たちの中でそれを明らかにさせることです」(六七頁)と結論づけている。
 この後に措かれた「オルド──東洋と西洋の対話」は著者と平岡仁子氏の間に交わされた実際の対話であるという。私が目を引かれたのは、対話の末尾のほうで著者が「そして多分、『日本ミサ』の展開が、今起こり始めています」(八四頁)と述べている一文である。この発言の趣旨や意図を詳述して欲しかったのだが、示唆的なひと言に終わっていたのが残念だった。
 第四講演は礼拝の司式について考察する。著者は礼拝に責任を負う司式者がオルドや司式の際の振る舞いを身体にまで「刻印」することの大切さを説き、「私は、自分が司式をする時、自分のこの体を用いることを考えました」(九五頁)と述べている。この指摘は私がかつて福音ルーテル教会で司式を経験させていただいた時の実感とも重なる部分があって、大いに納得するところがあった。
 最後の講演は、礼拝の理解と実践に関してルターが残した「遺産」について論じる。著者はルターは礼拝の伝統に対する尊重(「保護」)と「批判」という、二つの面を共に重んじていたと指摘し、さらに興味深いことに、ルター派にあっては「(礼拝の)改革は強いられてはならない」(一〇六頁)、「典礼による束縛への強制の拒否」(一〇七頁)という原理が存在すると述べている。この第五講演はルター派の礼拝論を扱っているのだが、そうした特定の教派だけでなく、広くキリスト教会の礼拝を考える上で共通するいくつもの問題提起となるものを示唆しており、評者としてもっとも感銘を受けた部分であった。
 最後になるが、以上述べてきた内容の評価とは別に、本書の訳文に関しては残念ながら苦言を呈しておかねばならない。直訳調というのか、総じて生硬な印象が否めず、誤字・脱字等を別にしても、文章表現や訳語の中に日本語としてこなれていないものや分かりにくいものが何度も出てくる。何か事情があったのかも知れないが、読者のことを考えるなら、より綿密な校正や推敲がなされて然るべきであったと思う。

(こしかわ・ひろひで=同志社大学キリスト教文化センター副所長・教授)

『本のひろば』(2014年8月号)より