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内容詳細
豊かな賛美を歌い継ぐために
詩人たちが繰り返し歌う、神の慈しみへの感謝は、時代を超えて今日もこだまし続け、私たちを賛美へと招いている。三部作の完結編である本書では、詩編101-150編の御言葉を味読し、神の救いの絶対的な確信と、「ハレルヤ」との高らかな賛美を共にする。
書評
牧会者として、キリスト信仰の立場から詩編を読み取る
関田寛雄
本書は著者による詩編講解、『新しい歌を主に──詩編に聞くI』、『嘆きの谷を通るときも──詩編に聞くII』に続く最終部分で詩編一〇一編より一五〇編の講解である。これによって著者の詩編講解は完結することになる。その完結を心から喜ぶと共に、その労を促してやまなかった著者の詩編への愛に敬意を表したい。この三部作はキリスト教会の詩編の学びにとって豊かな貢献となることであろう。「恵み深い主に感謝せよ」という本書のタイトルは、歴代誌上一六・34と詩編一〇六・1、一〇七・1、一一八・1、一一八・29、一三六・1に記されているものから付けられている。「まえがき」によると、第二次大戦下のホーリネス系教会の弾圧の中で獄中生活を余儀なくされたある牧師を生かし力づけたのがこの言葉であり、今もその教会の礼拝堂に掲げられているとの事である。苦境の直中で発揮される詩編の恵みの力に他ならない。
本書の読者にとって詩編を親しく分り易いものにしてくれる著者の配慮について述べておきたい。著者は詩編の各編の講解の冒頭にその編の序説的説明、即ちその詩編の作者、時代背景、その詩の性格などを簡明に解説し、その上でその編の構成、展開に従って小見出しを付している。例えば一〇一編では「一、無垢な心をもって(1―2節)」、「二、悪との決別(3―5節)」、「三、朝ごとに(6―8節)」のような具合である。既刊二書の場合と同様、このような小見出しを付して各部分の内容を主題化するという作業は大変なものである。これは正に著者の各編に対する熟読玩味による黙想から生れた表現であって、読者の理解を大いに利する適切な配慮である。
更に著者は詩編研究をめぐる著名な旧約学者の注解書を広く参照しつつも、その建徳的部分の引用を巧みに行なっており、これまた詩編理解を一層深めるのに役立っている。例えばA・ヴァイザー、J・L・メイズ、G・A・F・ナイト、A・B・ローズ、日本人では浅野順一、木田献一などが引用され、著者の詩編研究の姿勢も窺われる。それと共に旧約聖書研究を青山学院大学大学院旧約聖書神学専攻で学んだだけに、詩編の翻訳についても細心の注意を払い、新共同訳聖書に基づきながらも、「文字通りには......」と独自な訳を紹介したり、フランシスコ会訳、関根正雄訳、口語訳、新改訳などを参照しつつ厳密な意味内容の深みに読者を導いてくれる工夫も怠らない。そして宗教改革者の伝統を尊重して、「聖書による聖書の読解」を実行し、旧新約の各所からの引用によってある部分の理解を深める作業に努めている事も注目される。
一番大切な点は著者が明確なキリスト信仰の立場から詩編を読み取っている事である。例えば「この詩人は、キリストの十字架が起こるずっと前の人である。その彼が、『信仰の道をわたしは選び取りました』(30節)と告白したとき、新約から見れば彼はキリストの十字架を信じるというその『信仰の道』を選び取ったということになる」。これは一一九編の講解の一部である。つまり詩人の信仰的実存は遥かにキリスト信仰に生きる者の実存を指し示しているという視点が、著者の最も大切にしている事である。それ故に強烈な民族主義的な内容の報復を祈り求めるような詩編、例えば一三七編については、「『七の七十倍までも赦しなさい』(マタイ一八・22)と教えられたお方を信じる新約時代の私たちは、『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい』(ローマ一二・21)との福音の真理に生きるべきである」と勧められるのである。そして悲惨な運命を嘆く詩編の講解では、「私たちは、そうした私たちのすべての重荷を背負い、痛み苦しみを引き受けて十字架に架かられた主イエスを仰ぎ、主の勝利にあずからねばならない」との慰めを聞くのである(一二三編)。
最後に本書の「あとがき」について言及したい。昨年召天された青学大時代の恩師、木田献一氏の著者への私信が引用されているが、いわゆる「聖書学の客観主義的読み」の不充分さを語りながら、「牧会者の読み」を評価しつつ著者を励ましている木田氏の言葉の中に、師弟間の聖書学と牧会を介しての深い信頼の交わりを示されて、評者としても暖かい感動に導かれたことであった。
(せきた・ひろお=日本基督教団神奈川教区巡回教師)
『本のひろば』(2014年9月号)より