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内容詳細
第2次世界大戦で故国を追われたユダヤ人哲学者A.J.ヘッシェル。
その「熱情の神」の思想に励まされ、戦争体験を神学的に消化し、21世紀の神学がめざすべき方向を示唆した小山晃佑とJ.モルトマン。
「なぜ彼が死に、自分は生き残ったのか」
苦しみの体験の中でそれぞれの神体験を深化させ、非暴力と平和を目指す「共感の神学」を展開した3人。
生涯を辿りつつ彼らの言葉に触れることを通して、歴史と戦争を考え、3・11後、そして不安な世界情勢の中で生きるわたしたち自身の「生き方」を問う。
◆本書で取り上げた著作(目次より)◆
Ⅰ A.J.ヘッシェル 『イスラエル預言者』『人間を探し求める神』
Ⅱ 小山晃佑 『托鉢僧と水牛の国で』『水牛神学』『富士山とシナイ山』
Ⅲ J.モルトマン 『わが足を広きところに――モルトマン自伝』『十字架につけられた神』『三位一体と神の国』
◆著者紹介◆
佐々木勝彦(ささき・かつひこ) 東北学院大学文学部教授
●著訳書
著書『まだひと言も語らぬ先に――詩編の世界』(2009年)、『愛は死のように強く――雅歌の宇宙』(2010年)、『理由もなく――ヨブ記を問う』2011)年ほか。訳書 C.リンドバーグ『愛の思想史』(共訳、2011年)、クライン/ポルケ/ヴェンデ編『キリスト教神学の主要著作 オリゲネスからモルトマンまで』(共訳、2013年)(すべて教文館)ほか。
●好評既刊!〈人物の生涯と思想から、歴史を学び、生き方を考えるシリーズ〉
『愛の類比――キング牧師、ガンディー、マザー・テレサ、神谷美恵子の信仰と生涯』(2012年)
『わたしはどこへ行くのか――自己超越の行方』(2013年。取り上げた人物:E.フロム、V.E.フランクル、P.ティリッヒ)
書評
三人の神学者が戦争体験を経て共有した思想
森泉弘次
『イスラエル預言者』(教文館)によって不朽の名を残したユダヤ教神学者A・J・ヘッシェル、『水牛神学』(教文館)の著者として知られる世界的な神学者小山晃佑、および『希望の神学』(新教出版社)によって二〇世紀最後の数十年間、指導的神学者の一人として活躍したユルゲン・モルトマン。この三人の神学者の生涯と彼らが共有した「共感の神学」思想の本質、影響および未来への約束について書かれた興味深い本です。
キリスト教系大学で長年聖書や神学を教えてこられた方らしく、牧師や神学者だけではなく、戦争と平和の問題に関心を持ち、平和を真剣に希求する一般学生や一般読者にも近づきやすいスタイルで書かれています。
比類ない重要性にもかかわらず、日本では神学界ですらあまり知られていないヘッシェルや小山について著者のような真摯な神学者が主題的に論じる本書の意義は大きいと思います。
通読してもっとも印象深かったのは第一部「A・J・ヘッシェル」でした。著者はトマスの神学大全で知られている「存在の類比」に対してヘッシェルが強調した「行為の類比」の真義を探究します(七八頁以下)。その探究は示唆に富んでいますが、ヘッシェルの用語、deedsに『人間を探し求める神』(教文館)の訳者が「善き業」という「訳語」をあてたことに対して、疑問を呈しています。主な英語辞典にはdeedの訳語に「善行」「善き業」という言葉が載っていない等々の理由から。しかし訳語の決定は辞書の定義に依拠するだけではできません。文脈が大事です。原書を注意して読めば、deedsがヘブライ語の「ミツヴォット」の同義語として用いられていることは明らかです。英語のdeedは良い意味で用いられますが、それに対応する日本語「行為、行動、業」は修飾語によって善行にも悪行にもなります。つまり価値的には無記です。それで「聖なる」か「善き」という形容詞をつけるのです。英語のgoodはGodという言葉と関係があります。古英語ではgoodはgodと綴られていました。宗教改革後「善き業」は救済観念と結びつけられて悪い連想を持つに至りました。訳者は本来の意味トーヴ(詩篇二三篇六節、ミカ書六章八節)の語感を回復したくこの訳語を用いています。
第二部小山晃佑論も、翻訳を通してこの稀有な神学者を日本の読者に紹介したく努力してきた者として、多くの読者に読んで頂きたい文章です。ヘッシェルに導かれ、神自身の経験としての歴史観と、個々の人間の、ひいては人類の運命を憂い、連帯の苦しみを担う「共感する神」の神学を追究、実践した小山晃佑の神学的軌跡を著者は辿ります。小山の隣人学の原点を、ドゥルー大学神学部の学生時代、州立病院の臨時ワーカーとして托された瀕死の病者との悲痛な経験に見た著者の洞察は鋭い。
主著『富士山とシナイ山──偶像崇拝批判の試み』(邦訳が今年の八月頃教文館から刊行される予定)については、主に最終章「十字架の神学」にしぼって、偶像礼拝は必然的に暴力に通じる、真の平和は「他人は救ったのに、自分は救えない」イエス・キリストと共に到来する、キリスト教神学も自説を絶対化すれば偶像礼拝に陥るという小山の神学的洞察を浮き彫りにしています。
第三部「J・モルトマン」は、晩年の自伝『わが足を広きところに』(新教出版社)に依拠して、モルトマンの生涯を辿る。彼は従軍して一九四五年二月連合軍の捕虜となり、九月スコットランドの収容所内で見た写真を通して「ナチの犠牲者の眼の中に映る自分たちを見た」(本書二五九頁)。彼を絶望から救ったのはスコットランド労働者の家族の親切と聖書でした。
『十字架につけられた神』(新教出版社)を通して著者は、ヘッシェルの『イスラエル預言者』のパトスの神の神学をモルトマンが「読み、感激し、自らの神学基礎として受け入れ」たことを明らかにします(二八〇頁)。本書の全三部を貫く一筋の糸はエイブラハム・ジョシュア・ヘッシェルでした!
(もりいずみ・こうじ=青山学院女子短期大学名誉教授)
『本のひろば』(2014年7月号)より