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内容詳細
現代においても世界中の人々に親しまれている聖フランシスコ。彼の生地アッシジをはじめ、近郊のゆかりの地の風景を多数収めた珠玉の写真集。自然を愛し、清貧に生き、平和を祈った中世の聖者の足跡を辿り、深い想いに触れる〈巡礼の旅〉。イエズス会司祭による詳細な解説付き。
書評
大自然を慈しむ主に捧げられた賛歌
小中陽太郎
新しい年の始まりに、このような美しく心を捉える写真と文章に出会えるとはなんという、みめぐみであろうか。本書は、日本文化に深い理解を示される門脇佳吉司祭と、『空海の宇宙大伽藍』で知られる写真家池利文氏とのお二人による、「アッシジの聖フランシスコ」についての写真と文章である。
金色(こんじき)の天使の傍らに一歩控えめに立つ、まるで幼児のようにあどけない聖フランシスコ、ウンブリアの平野の彼方の丘、朝日に浮き出る回廊、そしてページをくると、縢(かがり)糸で丹念に縫われたラフな茶褐色の一枚の襤褸に心を鷲摑みにされる。きっと重い病の床にあっても聖人をくるんだのだろう。アッシジのフランシスコ大修道院長はケースから取り出し池のレンズの前に広げてくださったそうだ。主は、一本の木綿糸にも壮麗な大寺院にも宿られる。それを見抜いたカメラの目に涙を拭得ない。
本書は奇しくも、聖人と同じ教皇名をえらばれた現教皇に捧げられている。
門脇司祭の創作能「ヨハネの洗礼」をイグナチオ教会で参観する機会にめぐまれたことがある。その後妻の従兄弟梅原猛が現代口語による謡曲(「世阿弥」)に情熱を燃やしているので併せて教えられること多かった。つい最近も梅原と妻の伯父である明治の硯友社の小栗風葉の生誕一四〇年記念会で、藤田流家元藤田六郎兵衛の能管を聞く機会を得た。四三〇年前の萬歳楽という笛の音は喨(りょう)々として清冽、耳朶を劈(つんざ)く迫力に満ちていた。
ところで門脇司祭の深く沈潜する問題(それは私がペンクラブでお仕えした遠藤周作にも通ずるものであるが)は、遠く近東のユダヤの地に発生し、ヨーロッパ中世に育まれ、近世に至って北ドイツにプロテストの声を上げたジュディオ・クリスチャニティズムがいかにして、自然を神とするアジアに根付きうるかという難問であった。これこそ我が師森有正先生も苦悶し、なん人かの優れた思想家は多神教に戻った。
門脇神父にとってはそれをつなぐのは、一羽の小鳥であった。聖フランシスコこそヘレニズムとアジアをつなぐ、しつけ糸といったら、キリスト教史への冒瀆であろうか。
二年前新羅の古都慶州で開かれた国際ペン大会に臨んだことがある。そこでノーベル賞作家ル・クレジオの開会講演を聞いた。フランス人だが、幼時ナイジェリアで育ち、今はモーリシャスに住む。ル・クレジオは、「文学はリズムであり、それは野生動物に似る」と喝破した。「はじめに言葉があった」とははるかにかけ離れている。最後にル・クレジオは一句の俳句でしめくくった。
彼同様、英語で引く。
Even so long
A day not enough for singing
──That skylark
永き日も囀(さえず)りたらぬひばり哉
韓国は私にはつまづきの石であり、また目の鱗を落としてくれる。金芝河、金大中の死刑求刑とその不屈の闘いが私を主に導いた。今度もまた。
芭蕉にとって雲雀(ひばり)は雄を求めて鳴いているのでない。太陽を賛歌しているのである。
俳聖を引き合いに出さずともいい。たまたま、本稿に苦吟しつつ、テレビに目をやると『課外授業ようこそ先輩』(NHKEテレ一一月二四日再放送)で、俳人長谷川櫂のすすめに一人の男の子(宇城市立小川小学校五年)が吟じた。
こんにちわ すわっていいと ことりがいい
ここにもフランシスコがひとり。
『三四郎』に友が借りる借家の庭の描写がある。「菊が一株ある。このほかにはなんにもない。......気の毒なような庭である。ただ土だけは平らで、肌理(きめ)が細かではなはだ美しい」。そしてそこに漱石は三四郎池の美禰子(みねこ)を登場させるのである。『坊っちゃん』ならマドンナ(聖女)とまでは言わないけれど。
自然も語る、それが門脇神父のかがった日本人のキリスト理解の糸だった。
門脇司祭のご文には、聖人の名高い「太陽の賛歌」が上欄に掲げられている。
わが主よ、御身は賛美されますように、
姉妹で、われらの母なる
「大地」によって。
この母はわれらを養い、治め
さまざまの実と
色とりどりの花や草を生み出す。
本書は芸術家と司祭の二人によって捧げられた聖フランシスコ賛歌である。
(こなか・ようたろう=作家、日本ペンクラブ理事、野村胡堂文学賞受賞者)
『本のひろば』(2015年2月号)より