税込価格:1980円
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内容詳細

常に前進しようとする人間の内的欲求である〈自己超越〉には、緊急自動停止装置のないことが判明した現代。

世界大戦とナチズムに人生を翻弄されながら、その可能性を生き切った

E. フロム、V. E. フランクル、P. ティリッヒの生涯と言葉から、自己超越の行方を問う。

 

<読みどころ>

戦後の核兵器に守られた冷戦構造の中で、〈人間が人間らしく生きる社会〉を模索したフロム。

どんな絶望的状況にあっても、人間に許された可能性を生きるべきことを示唆したフランクル。

神学と哲学の総合をはかりつつ、常に新しいものに自らを開いた「境界の人」ティリッヒ。

——–生涯の歩みと本人の言葉を手掛かりに、3人の思想形成と課題を探る!———-

 

目 次

Ⅰ  E. フロムにおける「ラディカル・ヒューマニズムと宗教」

Ⅱ  V. E. フランクルにおける「自己超越と宗教」

Ⅲ P. ティリッヒにおける「深みの次元と倫理」

 

著者紹介

佐々木勝彦(ささき・かつひこ) 東北学院大学文学部教授。

著書:『まだひと言も語らぬ先に――詩編の世界』(2009)、『愛は死のように強く――雅歌の宇宙』(2010)、『理由もなく――ヨブ記を問う』(2011)、『愛の類比――キング牧師、ガンディー、マザー・テレサ、神谷美恵子の信仰と生涯』(2012)、訳書:C.リンドバーグ『愛の思想史』(コンパクト・ヒストリー・シリーズ、共訳、2011)(著書・訳書ともに教文館)ほか、著書・訳書多数。

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書評

フロム、 フランクル、 ティリッヒの思想研究の格好の手引き

西谷幸介

 著者の前作『愛の類比』(教文館)は、キング牧師、ガンディー、マザー・テレサ、神谷美恵子を扱った著作であったが、今回はフロムとフランクルとティリッヒを取り上げる。なぜ、この三人の思想家かと言えば、一つには、「E・フロムとV・フランクルの本は、今なお一般書店の本棚の一角を占有して......読む人が絶え」ないからであり、ティリッヒに関して言えば著者の神学的関心の大きな一角を占めてきた人物だったからであろう。
 しかし、より深い問題意識は、彼らが「一九三〇年代のナチズムと戦争に翻弄された三人」であったという指摘に窺える。彼らが「二度にわたる世界大戦とナチズム体験」という「目の前に突然現われたクレバス」を「どのルートを通って......渡ろうとした」のか、それがわかるならば、「東日本大震災を契機に」、現代人の「自己超越」にそれが「ないことがはっきりした」「緊急停止装置」の問題も、「少しちがってみえてくるかもしれ」ない、だからそれを探ってみよう、というのが、読者への本書の意義についての著者の説明である。ナチズムと大震災は時と形は違っても、「突然のクレバス」として一つなのである。
 なお、現代人の「自己超越」とは、「現状にとどまることに満足できず、常に新たなものを求めて前進しようとする人間の内的欲求」──これは「クリエイティヴィティとも呼ばれる」──であり、そこに「アクセルはあっても、肝心の緊急自動停止装置がついてい」ない、と述べられる。東日本大震災の余波も「人災と認めず、生き残るためと称して、負の遺産をさらに増やそうとする人びとが力をふるって」いる現状がそれを象徴している。
 以上が本書の「はじめに」と「あとがき」のパラフレーズで描き出される著者の問題の意識であり設定である。しかし、なぜ、フロムとフランクルとそしてティリッヒなのかを、本書の内容そのものに入り込みながら、もう少し敷衍すれば、次のように言えるであろう。哲学史においてはサルトルに極まってしまう「二〇世紀の実存主義」を、「なんとかして科学的に確認しようとした」のが「深層心理学」〔フロムやフランクルも〕であったが、精神治療者たちが患者のために「科学が働くことを望んでも」、それが「技法」として用いられる限り、実は彼ら自身がその営みの意義について確信をもちえない。
 それにたいして、精神医学の真理契機を十分に認めつつも、なお「信じながら〔それについて〕語り」、そこから人間の魂への「配慮」を体現していたのが、ティリッヒであった。それゆえに、多くの精神医学者たちが「治療者にとっての治療者」であった「ティリッヒのもとに来た」(ロロ・メイ)のである。しかも、倫理的重荷から現代人を解放することで重宝がられる深層心理学が、それに比例して倫理との取り組みの弱さを露呈するのにたいして、ティリッヒがなお神学的に倫理を説いたところに、彼固有の意義が認められる。
 著者が本書の「無意識のモチーフ」と言う「神秘主義と社会倫理の関係」、「深層心理学と宗教の関係」の骨格を、取り上げられた三人の関係において、評者なりに描き(穿ち)出すとすると、大体以上である。「自己超越」とは、単に人間の「クリエイティヴィティ」の視点からでなく、やはり「生きた」超越的存在との関わりのなかで、確認しうる事柄であろう。以上は著者が明示的にはほとんど語っていない本書の「モチーフ」であるが、本書理解のためには必要であろうと思い、表題・副題を意識しつつ、触れてみた。
 キリスト教圏では偉大な神学者・哲学者・思想家の解説・解釈がそれ自体で尊ばれてきた。ある意味で本書もそのジャンルに属する労作であろう。三人の思想家の、略年譜、選択された主要著作の──丹念に選択された決定的引用文を示しながらの──解説、加えて著者自身の問題意識に基づく論評が、提示される。興味深いのは時代毎の複数邦訳の比較も用いての解釈である。思想(家)の厳密な研究というのは、このようになされる(べきな)のだ、という手本が示されている。これから思想研究(とくに三人に関わる)に向かおうとする方々には、その意味で、とりわけお薦めの書物である。他方、彼らについてはもう卒業したと思っておられる方々にもお勧めしたい。再確認のみならず再発見が提供されるであろう。ティリッヒのために重要な弁明もそれとなくなされている。

(にしたに・こうすけ=青山学院大学国際マネジメント研究科教授)

『本のひろば』(2013年12月号)より