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内容詳細
罪の審判から永遠の命へ!
イエスが捕らえられた時に彼を見捨てた弟子たち。臆病な彼らはなぜ福音を大胆に語る者へと変わっていったのか? 人々に新しい生き方へ踏み出す勇気を与えるイエスの死と復活の今日的な意義を語った29編のメッセージ。
◆著者紹介
1933年生れ。58年に東京神学大学大学院修士課程を修了し、日本キリスト教団阿佐ヶ谷教会伝道師、東中通教会(新潟)、阿佐ヶ谷教会、成瀬が丘教会の牧師を歴任。その間、『信徒の友』編集長、世界宣教協力委員長などを務める。現在、日本キリスト教団阿佐ヶ谷教会名誉牧師、日本聖書協会理事長、敬和学園理事長、学生キリスト教友愛会理事長、神学博士。
書評
優しさに満ちあふれた語り口
松本敏之
本書は、二〇一二年九月に出版された『神の国の福音』に続く「マルコ福音書講解説教」の下巻である。上巻と同じ二九編の説教が収められているが、上巻より十数頁短くなっている。本書は一九九八年のものを中心として、他の時代のものや最近のもの(最後の二編)を加えて、一冊となっている。年代的には幅があるが、著者として最も納得のいく説教を選ばれ、加筆修正されたのであろう。文体もそろっており、違和感はない。
大宮牧師は、日本基督教団東中通教会(新潟)、阿佐ヶ谷教会、成瀬が丘教会の牧師を歴任し、その間、『信徒の友』編集長、世界宣教協力委員長などを務められた。現在も日本聖書協会理事長他の要職にあり、文字通り、日本のキリスト教界をリードして来られた方である。
私は、大宮牧師のもとで訓練を受けたいと願い、神学校の最終学年を阿佐ヶ谷教会で過ごしたが、不思議な導きにより、そのまま三年間伝道師として働くこととなった。それは、私にとってかけがえのない貴重な経験であった。そこで牧会の基礎と共に、「どのように説教をするのか」という最も大事なことを大宮牧師から学ばせていただいた(もちろん今でも彼のような説教はできないが)。
さて大宮牧師の説教の特徴を幾つかあげてみたい。
第一に、当然のことかもしれないが、神学的基盤がしっかりしている。その拠って立つ所は、ルター、カルヴァンなど宗教改革者からカール・バルトにいたるプロテスタント神学の本流である。それゆえに、どの説教もよい意味で安心して聞く(読む)ことができ、福音の核心に触れることができる。
第二に、引用が多様で、古典から現代神学まで縦横無尽である。それらは著者の膨大な量と高い質の読書に裏打ちされ、教養の高さがあふれ出ている。キルケゴールやオットー、パスカルあたりまではそれなりに読んでいる牧師も多いであろうが、大宮牧師の説教では、それらに加えて、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテなどの文学がしばしば登場する。それらは著者の血となり肉となったものであるので、どの引用も適切で、取ってつけた感じがしない。例えば、以下の文章である。
「ダンテの『神曲』の『第三部』で、ダンテが自分を地獄界、煉獄界を通じて導いてくれたヴェルギリウスに別れを告げて、愛するベアトリーチェに導かれて天堂界に入ります。そこではベアトリーチェが目を太陽に注いで立っています。彼はベアトリーチェを見つめることから、ベアトリーチェが見つめているものを見るようになり、天を仰いで共々に天への旅に登って行きます。ここには神への愛が人間の愛を高め潔めることが示されています」(一四一頁)。
また讃美歌の引用も多く(三回)、ヘンデルの「メサイア」やバッハの「マタイ受難曲」からの引用もある。「メサイア」を聞きつつ、「ふと『こんなに幸せなら、今死んでもよい。死んでも恐ろしくない』という感じがしました」と、てらいなく語られるあたり、ある意味で大宮牧師らしいと思った。
第三に、右記のことから想像できるように、その説教は高尚であり、エレガントであるが、それでいて、「上から目線」ではなく、謙虚である。「偉い先生」の説教を聞いたり読んだりすると、何か緊張を強いられ、叱られているような感じを受けることがあるが、大宮牧師の説教は、全くそういう感じがしない。著者の優しい人格がにじみ出るのであろう。
第四に、射程が広く、これもまたよい意味でバランス感覚がある。右にも左にもぶれない。教会の礼拝には、当然のことながら、いろいろな人が来る。大宮牧師の説教は、社会のエリートのような人の悩みにも十分応える内容である(例えば三六頁四行目以下)と同時に、ごく普通の人にも分かりやすい。
ぜひ多くの方に読んでいただきたい説教集である。
(まつもと・としゆき=日本基督教団経堂緑岡教会牧師)
『本のひろば』(2013年9月号)より