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内容詳細
好評であった『ルカ福音書講解』(全6巻)、『ローマ人への手紙講解』(全5巻)に続き、『使途言行録講解』(全6巻)を2012年7月から隔月で刊行しています。榊原牧師が現役時代の最後と、引退後に名誉牧師となって説き明かした全114篇の説教を収録。
書評
使徒的宣教の原初形態への畏敬、そして集中
小野静雄
二〇一三年一月、八一歳で逝去された著者の最後の説教集である。榊原康夫先生は、日本キリスト改革派教会の「説教」の歩みにとって、特に大きな足跡を残した人と言ってよい。その事実に異論をいだく人は、少なくとも日本キリスト改革派教会の中にはいないであろう。
説教者としての著者の歩みを貫くのは、何よりも旧新約聖書の原典研究を踏まえた周到精密な聖書釈義である。その方針は、晩年に至るまでいささかの変更もない。原文の理解について、釈義上考えられる幾つかの選択肢を示したうえで、著者が妥当と考える意味を確定し、聖書本文がそこで語ろうとする内容を提示する。著者は、いつの頃からか自身の説教を「釈義説教」と称するようになった。聖書本文の釈義が、ほとんどそのまま説教の使信を形作るという理解である。
著者の説教観は、本書においても各所で部分的に示されている。一例を挙げれば、聖霊降臨後のペトロによる説教について、次の発言がある。「この説教において、決して説教者個人の信仰体験であるとか説教者本人の思想であるとか、そういうことを宣伝するのではなくて、聖書が契約と預言において示しております聖書の論理、神様の理屈、これを見事に解き明かして論証と説得をするという、非常に聖書的なロジックに裏付けられた堂々とした説教でありました」(第二巻、一一頁)。
説教は聖書本文の解き明かしである。この定義に異論をはさむ牧師はいない。ただ聖書から説教に至る言葉の歩みの中で、説教者自身の信仰と存在、あるいは会衆のもつ言葉など、説教言語の多重性への配慮を求めることが、現代説教論の主流を占めることは否定できない。聖書本文以外のさまざまな言語(物語)の導入を、聖書的説教からの逸脱とみるか、福音的説教のあるべき道筋とみるか。現代説教論の主たる傾向は後者にあろう。そうした中で、本書の著者の説教理解は、上に示したように、「説教者個人」「説教者本人」の体験や思想を極力抑制し、純粋に聖書そのものをして語らしめる方法である。
しかしこの抑制は、著者の説教にかえって精彩と力強さを加えている。出版された著者の説教を、比較的多く読んできた筆者の貧しい観察に照らしても、壮年期の釈義的説教には、渾身の力量を傾けてなされる、ほとんど華麗とも言える見事な洞察が多く見られた。目を瞠るような思い切った釈義上の冒険も少なくなかったのである。その意味では、晩年の説教を収める本書は、まさに「地味な講解説教」(第一巻、八頁の著者自身の表現)という印象が強い。
しかしそれは著者晩年の説教の衰退などを示すのではない。むしろ、深く抑制された釈義と適用から、滋味豊かな励ましと慰めが届いてくる。あたかもピシディア州アンティオケでのパウロの説教のように、朗読された神の言葉に見事に即して、「神の御言葉が一人ひとりわたくしのかたわらに聞こえて来」る、そのような類の説教と言わねばならない(第四巻、八五頁)。
抑制されている分、それだけテキストの字句を貫いて来る福音の使信は、固い岩から流れ出る清水のように、聴き手の魂を奥深く潤し、牧会者の祈りと愛を教会に満たしたであろう。筆者自身、知悉しているはずの聖句と初めて対面するような、驚きと歓びを幾度も体験した。生涯最後の説教のために『使徒言行録』を選んだことは、使徒的宣教の原初の形態、そこを流れる伝道精神への深い傾倒を考慮しないわけにはいかない。
七〇歳で引退後一〇年は、時おり東京恩寵教会の講壇を託されたが、八〇歳を迎えたとき、実際の講壇に立つことを自ら断念された。語り残した二〇回分は、自室のテープレコーダーに向かい一人で語ったという(本書第六巻)。説教者として歩む後進の心に、ゾクリと鳥肌の立つような畏怖を抱かせる挿話ではないか。老いてなお幼児のように御言葉に熱中したのである。
(おの・しずお=日本キリスト改革派多治見教会牧師)
『本のひろば』(2013年11月号)