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内容詳細
神に揺るぎない信頼を置くために
詩編の賛美には「喜びの歌」よりも「悲しみの歌」が多く見られる。人間存在の根底に関わる苦悩や、悲愴な呻きが歌われた詩編に出会うときにも、私たちは詩人の祈りの中に、慰めと希望を見いだすことができる。本書では詩編51-100編を一編ずつ読み深めていく。
書評
福音信仰の光のもとで詩編を読む!
深津容伸
本書は「詩編に聞くⅡ」という副題のもとで、詩編五一編から一〇〇編までを解説している。我々が詩編から学ぶのは、たとえ苦難の中にあっても神と向かい合い、絶対的とも言える信頼をもって祈る詩人たちの信仰である。その点本書では、この本質が余すところなく深く汲み取られているといえる。詩編には(もっとも旧約聖書自体がそうであるが)イエス・キリスト、そして彼の十字架での死と復活による罪の贖罪という福音が表現されていない。このことについて著者は福音信仰の光のもとで詩編を読むようにと勧めている。本書を読むことによって学ばせられるのは、キリストの福音の恵みがいかに大いなるものであるかということである。詩編を通してなされるキリスト者の黙想はかくあらねばならないと思わせられる。
以上との関連で、キリスト教徒が詩編を読む上でどうしても引っかかるのは、敵への報復を徹底的に願う祈りが多いことである。それに反してイエス・キリストは敵を愛し、敵のために祈ることを命じている。詩編はこの点では福音的ではない。これについて著者は、詩編の限界を指摘しつつも、神による公平と正義を願う祈りと受け取るように勧める。究極的には、そのことを通して悪人が悔い改めることを求めるものである。そしてそれは、キリスト教信仰の光を通して見るならば、キリストの贖罪へとつながるものである。
以上の点で、本書は旧約の詩編という書物をキリスト者にとっても、キリスト教会にとっても、身近で、福音信仰にとって重要な書物に位置づけているといえる。そしてその観点から、それぞれの詩の解説に際しての表題にも工夫がこらされている。また、参照される参考文献も多岐にわたっており、詩編の読みを深める上で有効に使われている。
詩編を学問的に見る時、大きな問題は、時代背景をつかみづらいという点である。一応背景を示す表題が付けられてはいるものの、それらは学問的信憑性を持っていない。またそれぞれの詩は時代経過の中で付加されてきている可能性も高い。時代背景が明らかならば、それぞれの詩をそこに当てはめて具体的に解釈することも可能であり、実際に注解書ではそれを行なっている。しかしその時代設定は、当然ながら解釈者によってまちまちであるのが現状である。ここで、学問的には捨て去られているような表題ではあるが、もう一度見直してみる必要がある。特に本書のように、読者を黙想へと導く場合はそうである。なぜなら詩編は、そこに付されている表題(詩が作られたとされる背景)のもとで読まれ、黙想され、歌われてきたからである。この点で本書は、背景としての表題をしっかり踏まえつつ、その限界も指摘し、それを越えた意味を探っている。表題はその詩をより深く読むために付されたものといえるので(もちろん通常言われているように、詩に長けたダビデ王に帰することで権威づけたともいえるが)、これは重要な作業である。
筆者は以前に著者の『起きよ、光を放て――クリスマス・イースター説教』の書評をさせていただいたことがある。その時に強く印象づけられたのは、著者の罪理解の奥深さだった。人間はどうして罪を犯すのか、罪を犯した結果、人間はどのようになっていくのかについて、著者は鋭い洞察を持っておられる。この洞察は、詩編五一編を初めとして、本書の様々な部分で展開されている。こうした理解の深さの背景として、著者が長年にわたり、刑務所の教誨師を務めてこられたことと無関係ではないのでは、と思われる。それと同時に、こうした洞察が、全編に流れる強烈な福音信仰のもとでなされていることはさらに重要である。
本書は、教会の祈遖ア会等各種集会はもちろんのこと、個人の黙想のためにも有効に使われえるものと期待される。
(ふかつ・よしのぶ=山梨英和大学教授)
『本のひろば』(2013年4月号)よりツꀀ