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内容詳細
● 日本語で初めて書き下ろされた通史
キリスト教信仰の中核に位置し、宗教の根本をなす「霊性」とは何か。「霊・魂・身体」の人間学的三分法を基礎に、ギリシア思想から現代まで、2千年間の霊性思想の展開を辿る。
終章では、現代人が直面する精神的危機の由来を明らかにし、世俗化時代における霊性復権の道を問う。
著者紹介
金子晴勇(かねこ・はるお)
1932年生まれ。聖学院大学総合研究所名誉教授。
著書に、『アウグスティヌスの人間学』『ルターの人間学』『マックス・シェーラーの人間学』『ルターの霊性思想』など。
書評
「キリスト教的人間論」の通史
小高 毅
たいへんな力作である。本書のカバー帯にうたわれているとおり、たしかにキリスト教霊性に関して「日本語で初めて書き下ろされた通史」であろう。著者自らが「あとがき」で書いておられるとおり、本書は聖学院大学大学院で行われた講義を元に三年間かけて書き上げられたものである。著者は処女作である『ルターの人間学』から本書の前作にあたる『ヨーロッパの人間学の歴史』に至るまで一貫してキリスト教的人間論を探求し、数多くの著書を刊行してこられた方である。その意味で著者のこれまでの御研鑽の集大成とも言えよう。
本書の表題は「霊性思想史」となっているが、「霊性」という言葉に惹かれて本書を購入し、読み始められた方のなかには違和感を覚えた方もおられると思う。それは「霊性」という言葉の捉え方の違いによることであろう。そのような方は「キリスト教的霊性ではすべてにおいて神の恵みを中軸とする受動的他力思想が基本である」と考え、「恩恵としての神秘的体験」とまでは言わなくとも「恩恵としての霊的体験」の論述を期待したことによるのではあるまいか。
そもそも「霊性」という概念はギリシア・ラテン世界の「霊・精神」の概念と聖書の「神の霊」の理解との集約であるとともに、近代フランスにおける「創造的な霊的・知的活動としての霊性」とが複雑に絡み合っており、訳語の選定が難しいことが指摘されている。そのことはフランス語で刊行された霊性史の邦訳の表題として「神秘思想史」という語が選ばれていることにも表れているといえよう。
そのような状況を踏まえて著者は、ヨーロッパのキリスト教思想史において哲学的な心身の二区分とは別に、『霊・魂・身体』の三分法が説かれてきたが、それはパウロの一テサロニケ書五・23の「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けることのないように」という言葉に由来し、オリゲネスを経て西ヨーロッパの伝統的な見解になったと指摘する。そして、ここでいわれる「霊」は「実体である魂に所与として認められる特別な機能であり、しかも広義の精神に所属する宗教的機能である。(中略)『霊・魂・身体』の三区分法を心の認識機能という観点から考察するならば、それは霊性・理性・感性という三つの基本的作用とみなすことができる」と指摘、「キリスト教の思想史を通してこの『霊性』が『理性と感性』に関わりながらどのような思想を生み出してきたか」を解明することを目指したのが本書であると自ら述べている。したがって、本書は「キリスト教的人間論」の通史であると言ってよかろう(五四三頁)。
そして、この「霊性」は「それによって人間が永遠者なる神との関係を生きる機能」、「道徳や倫理を超えた霊的な生命」であり、「神から来る愛を受容して生きる」ものであり、この「受容能力」こそが霊性である。そのような霊性の深化は「力強い実践への原動力」となり、「自己愛を否定し他者に向かう愛のわざ」にキリスト教的霊性の特質を向かわせると指摘される。著者のこのような洞察は、カトリック、プロテスタントを問わず、多数の哲学的な思想家や神秘主義家の研究に向かわせ、極めてエキュメニカルな論考となっている。
ギリシアと聖書における霊性が論じられた後、教父時代、中世のスコラ時代の代表的な思想家、女性神秘家、「新しい敬虔」運動、宗教改革者たち、スペインのテレサや十字架のヨハネ、十七・十八・十九世紀のイギリスならびにドイツの思想家たち、さらにはシェーラー、プレスナー、ティリッヒからトーマス・マートンにいたる多数の著作家の主要な著作が論考されている 読了して驚きを禁じ得なかったことは、本文に付された参考文献ならびに脚注に上げられた著書の多くが邦訳され、公刊されていることであり、著者がそれらを十分に活用されていることである。もちろん、著者は邦訳されていない重要な作品を多数あげ、自訳で紹介してくださっているが。
(おだか・たけし=聖アントニオ神学院教授)
『本のひろば』(2013年4月号)より