税込価格:1980円
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内容詳細

神学的視座のみならず、政治経済・文化社会的な視座も統合した「新しい」宗教改革史。

中世から近代に至る、ヨーロッパのキリスト教化というダイナミックな文脈の中で、ルターに始まり農民戦争や再洗礼派に至るまで、幅広く多様な形で展開し、歴史に決定的な刻印を残した「宗教改革運動」を見事に描いた斬新な入門書。

宗教改革のおこった背景となる〈中世農村の生活とキリスト教〉について1章をさいて詳しく言及。

ドイツ(ルター)のほか、スイス、ハンガリー、スカンディナヴィアなど、欧州大陸における広範な宗教改革を取り上げる。

教科書としても最適!

著者のKenneth G. Appold氏は、1965年ドイツ・ケルン生まれのアメリカ人。エール大学卒業後、ルーテル教会牧師のした経歴を持つ、長老教会の神学校・プリンストン神学大学の現役教授。

訳者の徳善義和(とくぜん・よしかず)氏は、1932年生まれ。ルーテル学院大学、ルーテル神学校名誉教授。著書に『神の乞食』『マルチン・ルター 生涯と信仰』のほか、近著に『マルティン・ルター』(岩波新書)など。『キリスト者の自由』など多数のルターの著作を翻訳する、日本におけるルター研究の第一人者。

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書評

新世代の視点が冴える

出村 彰

 原題では、Reformation: A Brief History, 邦訳の書名では「小史」とある。しかしながら、コンパクト・ヒストリー・シリーズの一端だけに、コンパクトの原語義「ぎっしりと詰め込まれた」にまことにふさわしく、単なる略史ではない。これまでも決して少なくない宗教改革略述を予想して読み始めると、再読、三読を強いられることは必定である。

 評者がまず言いたいのは、本書が「第三世代」の宗教改革史記述だということである。二十世紀半ばまで、いわば伝統的記述だった、あえて例示すれば、英語圏ではプリザーヴド・スミス、独語圏でならシューベルトなどの記述法、あるいは評者らが教会史の手ほどきを受けた頃の宗教改革史を第一世代としよう。ところが、ジョージ・ウィリアムズやベイントン、さらにペリカンなどによって「宗教改革」の包括概念が一気に拡張され、宗教改革の多様・多義・多重性が強く意識され、加えて、経済史、社会史、女性史など、原資料に手堅く立脚した緻密な研究が次々に公刊されるのが第二世代である。これらの成果をしっかりと踏まえながら、宗教改革を特定の時代に限定することなく、原義にふさわしく「キリスト教の不断の自己改革」として捉えたのが本書である。

 原著者の「略歴」そのものも、新しい時代の到来を暗示するかのごとくである。ドイツ生まれのアメリカ人、上記の宗教改革史転換を招来したベイントンらの学統を引くイェール大学で学位を取り、ドイツに学んで教授資格を得てヨーロッパ各地で教鞭を執った後、今はプリンストン神学校に在勤する一九六五年生まれの新進気鋭とある。両校で学んだ評者がいちおう学業を終えたのは一九六四年だったので、けだし羨望と賛嘆の念以外にない。極言すれば、本書は今後とも「絶えず新たに改革され続ける宗教改革史」の象徴、あるいは先駆けともなるだろう。

 全体の章立て、その表題の付け方がすでに暗示的である。一、中世キリスト教化の諸相、二、ルターのできごと、三、宗教改革は改革する、四、宗教改革が打ち建てたもの、最後に短いエピローグとして、宗教改革の遺したもの、 となる。頁数にこだわるわけではないが、全体の約半分がルターと北欧を含むルター派教会の形成に割かれているのは、原著者の専攻分野からすれば当然かもしれないが、評者自身の拙論著を含めた従来の記述(ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、イングランド、願わくは「急進派」、さらにはカトリック改革……と並列的に記述を進める)との著しい差異が印象的である。いわば、初回からエース級を投入して必勝の構えなのである。しかも、それが決して「わが仏尊し」ではなく、読み進めるほどに説得力を増すのが不思議でならない。

 あるいはむしろ、「当然」なのかもしれない。何故ならば、ルターもまた、それまでのキリスト教とその苦闘の歴史の所産だからである。原著者は中世をヨーロッパのキリスト教化がすでに達成され、それが過熟した結果、「改革・復元」が必須となったという従来の史観に断固として挑戦する。忘れてならないのは、つい数世紀前まで、ヨーロッパは圧倒的に農村社会で人口の九割以上が農民であり、彼らの生活と心性とはキリスト教化の長い歴史によってさえも、大きく脱皮することはなかったという事実である。彼らがしがみついて生きる土地、その領有・支配権の所在の確認、並びにそこで辛うじて生き抜くことの意味づけの双方を、キリスト教宣教は自己放棄と禁欲、および権力と権威という諸刃の剣で推し進めてきたし、今後ともそうであろう。その意味では、十六世紀の宗教改革は他の時代と特に顕著に懸絶した「歴史の曲がり角」だったわけではない。現代でもグローバルには、世界人口の大半は土地で生きる「農村」なのである。
 それではすべての歴史的事象の相対化に終わらないか、という疑念が出るかもしれない。しかし、福音はその本質よりして他者――究極的には「神」という絶対他者―と出会い、厳しく問われつつ、新しい自己確認(救い)に到達する過程ではないだろうか。原著者の基本的立場によれば、「この世のキリスト教化」はいまだに進捗中のプロセスである。それは単純に、万人がキリスト教徒になるという意味ではなく、福音が投げかける永遠の問い、個と普遍、ローカルとユニヴァーサル、時と永遠への問いを共有する努力の再確認ともなるだろう。十六世紀宗教改革は、この意味では今後とも世界史的意義を持ち続けるのである。

 この小著をあえて、第三世代の宗教改革史と呼ぶ論拠もここにある。「百聞は一読にしかず」の感を深めた快著である。

(でむら・あきら=東北学院大学名誉教授)

『本のひろば』(2013年4月号)より