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内容詳細
正統的な道筋を示す必携の書
この、小さな、しかし記念碑的な著作が、ついに日本語になったことに、心から感謝を申し上げたい。J.S.バッハの教会音楽は、やはりその本来の趣旨である典礼との関係を考えずには、決して理解することができない。そのような意味で、リーヴァー氏は、私たちがバッハに向かうべき、正統的な道筋を端的に示し、作曲者の『説教者』としての意図を明らかにしてくれた。J.S.バッハの音楽を愛するすべての人の必携の書である。 バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督 鈴木雅明
書評
バッハの教会的、神学的脈絡を知る好著
ロビン・A・リーヴァー著
荒井章三訳
説教者としてのJ・S・バッハ
徳善義和
日本のバッハ研究の水準も高くなった。本文研究や本文決定に当たる研究に努めて、自筆楽譜や書写楽譜によって、新バッハ全集に載せる楽譜の決定という地味だが、基礎的な研究と作業をする人も現れている。しかし、バッハのキリスト教的、神学的背景については関心が薄い。日本におけるバッハ研究の大御所で、「バッハの信仰などという主観的な問題はバッハ研究の邪魔になる」と言った方がいるというようにも聞く。しかし、バッハの信仰はバッハに即して客観的な事実なのであって、これを排除してバッハの教会音楽を語ることはできないであろう。
実際バッハ研究の中には、「バッハの神学的研究」という領域があり、国際的な研究グループがあって、研究叢書や論文集も出版されているし、欧米ではこの関連の学位論文も珍しくない。
この本の著者ロビン・A・リーヴァーもこの研究分野の代表的な一人であり、「バッハの遺産目録の蔵書目録」研究などという地味な実証的研究もあれば、その蔵書のひとつで、唯ひとつセント・ルイスに現存する「カロフのルター訳聖書」のバッハの書き込みについての資料と研究もある。
今回荒井章三氏の訳によって出版されたこの本は学術的な研究ではなく、研究成果を踏まえた、英国での二つの受難曲演奏のコンサートの際の解説が基になって、一九八二年に英国、八四年に米国で出版されたものである。そのねらいは、受難曲の聴き手に、そもそもバッハにおいて受難曲がどういう脈絡に位置づけられているかを明らかにするのが主眼であろう。かつてライプツィヒのトマス教会の受苦日の夕の礼拝に出席した会衆がそこで体験した、主の受難のできごとの福音を追体験するようにとの招きでもある。
その構成は「音楽と神学」、「歴史と背景」、「典礼と礼拝」、「受難曲と説教」、「バッハの受難曲」、「演奏と宣教」の八章からなるもので、バッハの受難曲の背景が説教にあり、バッハ自身が受苦日の夕の礼拝の説教に寄り添う「音楽の説教」を心掛けていたことを示す意味深い記述になっている。
事実この本がアメリカで出版された年に、この本でもその名が挙げられているハインリヒ・ミュラーの受難節説教集をバッハと「マタイ受難曲」作詞者が読んで、これを自由詩の部分に生かしたという実証的な研究書(アクスマッハー、『「愛ゆえに我が主は死のうとなさる」――一八世紀初期の受難理解の変遷についての研究』)が出版されている。この本では彼女のそれ以前の関係論文についてしっかりと言及されている(五五頁以下)。だから受難曲の背後にははっきりと説教があったことが実証された。それゆえにこそ、まさしく受難曲は簡単に言っても、聖句、自由詩の形の説教、コラールということばの礼拝的展開の形が重なって進められることが示されたことになろう。
日本にもバッハ愛好家は多いし、毎年演奏される受難曲を聴きに多くの人々が集まる。聴く人が一人一人それぞれの仕方で受難曲を聴くことを歓迎してよい。しかし、キリスト者も多く聴衆の中に含まれるであろう。そうならば、専門のバッハ研究者のためではなく、一般の人々のために書かれた、教会的脈絡のこの本によって啓発されて、受苦日の夕の礼拝の脈絡で受難曲を音楽の説教として聴くキリスト者が増えていくことも願っている。
ほぼ同じ時期に立教の大学院で学んだ畏友荒井章三教授による丁寧な訳業に感謝して、紹介としたい。バッハ・コレギウム・ジャパンの西の拠点、神戸松蔭女子大学の教授、学長を務められた方の並々ならぬ思いのこもったお仕事と受け止めた次第である。
(とくぜん・よしかず=ルーテル学院大学・神学校名誉教授)
(A5判・一〇四頁・定価一五七五円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2012年6月号)より