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内容詳細
説教とは、〈今ここで〉、生けるキリストにお会いする出来事である!
われわれの説教はどうして〈解釈〉と〈適用〉に分かれてしまうのだろうか? そこに潜む律法主義を克服できないのだろうか? 聴衆を喜びの福音へと招き入れるためにはどうすればよいのか? 現代日本における伝道と教会形成の課題を見据えながら、説教再生の道を問う6つの考察。
書評
説教再生の道を問う六つの考察
加藤常昭著
出来事の言葉・説教
佐 藤 司 郎
加藤常昭先生の一番新しい本。著者の主宰する「説教塾」の集まりで二〇〇八年から二〇一一年の夏頃までに語られた講演の集成である。五〇〇頁を越える大著は読み通すのに当然かなりの努力を強いる。しかし読みにくくはない。むしろ著者が何としても伝えたいと考えていることがはっきりしており、それをめぐる丁寧な議論の積み重ねとその展開に、ついて行きさえすれば、だれもがきっと新しく深い認識に導かれるであろう。私自身が今回そういう経験をさせてもらった。
六つの大きな講演が三部に配置されている。三部とは、第Ⅰ部「出来事の言葉・説教」、第Ⅱ部「あるべき説教の言葉を尋ねて」、第Ⅲ部「新約聖書の説教論」。むろんすべて相互に関連し合っている。
何よりもまず本書の冒頭、最初の講演(第Ⅰ部第一章「出来事の言葉・説教」)のはじめに紹介されている、ある読書会でのH牧師との会話、この人が中座したあいだのG、M、そしてO牧師らとの会話は、じつに興味深かった。そこでいわば暴露されているのは、著者が長年にわたって自明の前提と考え、徹底して語ってきたことが、いまだに十分理解されていないことであった。著者が前提として考えてきたのは「説教の言葉はすべて、最初から終わりまで〈出来事における言葉〉であること」であったが、それが、たとえば、説教の中で、その途中のどこかで感動する瞬間があったり、悔改めが起こったり、まさにそうした時に言葉は出来事となるのだ、そんなふうに理解されていた。しかし著者によれば、「言葉の出来事」とはそういうことではない。それは「説教のどこかで神秘的な瞬間があったりね、ああ今日は感動したとかね、そういうことではありません。ひとつの言い方をすると、感動しなくったっていいんですよ。言葉が通じていれば」(一六頁)。塾生との何気ない話の中で見えてきたこと、むろんそれは笑いごとでも、人ごとでもない。われわれも多かれ少なかれ似たように考え、またおそらく、それにお似合いの説教者像や牧師像をもっているのではないだろうか。
このやりとりの中で著者は自分が急いでもう一度しなければならない課題を見て取った。出来事の言葉としての説教理解と、それに関連するもろもろの問題のさらなる解明である。本書の諸講演はみなそのために用意されたものであった。
第Ⅱ部の諸講演は、第三章「伝道し、教会を造る説教」も第四章「改めて問うわれわれの課題」も「出来事としての言葉・説教」を実践的かつ理論的に問うている。その中で一つ印象に残ったのは、著者が、初期バルトの説教理解に対するイーヴァントの批判やボーレンのバルト解釈を紹介しつつ、後期バルトの説教理解を、「聖霊論的思索を含んでいる」ものとして高く評価していることである。本書全体を通して改めて著者とバルト神学の深い関わりに目が開かれた。
ご自身の説教者としての歩みを振り返る第五章「私の説教を語る」も興味深いものであった。それははじめから出来事としての言葉に生きていたことを示し、出来事としての説教理解の急所ともいうべき、説教の言葉から切り離すことのできない「説教者」の姿を具体的に見せてくれる。とくに最初の伝道地金沢での説教を私自身は好ましく読んだ。
第Ⅲ部「新約聖書の説教論」は、パウロの説教論をめぐる粘り強い黙想。説教学的パースペクティヴから、教えの源泉として読まれがちなテキストが、まことに生き生きと立体化し、最初の伝道の現場にわれわれも立ち会わせられたような、そんな思いすらもった。本当にこういうことが、これまで、どうしてきちんとなされなかったのだろうか。本書の中の白眉とすべき労作である。
本書を日頃から何らかの形で説教に関わっているすべての人びとにおすすめしたい。きっと自らの奉仕を少し客観的に省察してみる最良の機会が与えられるであろう。
(さとう・しろう=東北学院大学教授)
(A5判・五三六頁・定価四七二五円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2012年4月号より)