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内容詳細
国際的に活躍した神学者を世界に知らしめた名著!
8年間にわたるタイでの宣教活動と6年間にわたるシンガポールでの神学教育に携わった著者が、自身の体験を踏まえながら、「アジア的伝統とキリスト教信仰の両立」のための神学を提唱する!
ユニークなキリスト教宣教のアプローチにより欧米におけるキリスト教理解に幅広い影響を与えた著者の代表作を、最新版である「刊行25周年記念版」から翻訳。
日本でのキリスト教宣教のあり方を考えるうえで参考になる書。
書評
「神の宣教」の中で宣教し、考え、行動する
小山晃佑著
森泉弘次訳
水牛神学
アジアの文化のなかで福音の真理を問う
岩橋常久
敬愛する小山晃佑先生
久しぶりにお便りします。二十数年前、お宅に住まわせていただき、台所で神学を語り合った日々を思い出しています。この度、『水牛神学』の邦訳が出版されました。先生は本書で、仏陀の弟子、使徒ヤコブそしてタイの宣教師の先輩宛てに、上座部仏教やタイの宣教に関する対話的手紙を書かれました。小生も、それに倣い先生にお便りします。この邦訳出版は、シンガポールでの出版(一九七一年)から四十年後のことですが、本訳書は、小山神学を世界的に広めた一九七四年版から二十五年経って出版された『二十五周年記念版』の翻訳です。先生は、『記念版』のための「まえがき」と「エピローグ――わが宣教の巡礼の旅」を加えられました。前者では、約三十年間に『水牛神学』に向けられた批判に応えておられます。『水牛神学』は、「アジア的神学」ではなく、地域を重視しながらもエキュメニカルな視座を失わない「アジアにおける神学」であること、この二つの座標から離れたアカデミックな神学方法論には最初から関心がないこと、『水牛神学』は「神を語る言葉」、「詩的言説であって、学問的、科学的言説ではない」等と応答されています。後者では、日本、タイ、シンガポール、ニューヨークでの、キリスト教宣教の根幹を揺るがす出会いや出来事に対する一人の人間として、宣教者、神学教育者、そしてエキュメニカル神学者としてなされた実存的対応を明らかにされます。小生は、感動しながら読みました。東京、ニュージャージー、チェンマイでの固有の経験や神学的思索を統合する必要性のなかで、その軸となった先生の「確固たるアイデンティティ」は夜の空襲に曝されて発された「主よ、憐れみ給え」にあったとの告白、タイ語学習で経験された「舌はもつれ、肺は痛み、知性は恥辱を感じた」ことを「第二の霊的洗礼」と位置づけられたこと、さらにガンの末期症状の女性が、先生の「宗教的征服の対象」にされていることを感じ、「帝国主義的な一方的態度」を批判して、先生を拒否したことを通じて、「もしもわれわれが隣人のリアリティの視座から神のリアリティを見ることができないなら、われわれの神の現臨の意識は歪められたものとなる」と悔い改められこと等は、先生の神学を理解する重要な鍵ですね。これらの経験から「人々の顔に神の顔を見る」神学「方法論」に辿り着かれたのですから。
この他、神が愛のゆえに歴史に介入すると説く宣教師と歴史から離れて静寂に暮らす修行を積む仏教徒との対話を通じて、仏教文化の影響下、歴史軽視のタイのキリスト教に歴史に介入される神の慈しみを展開されます。これは、タイのキリスト教だけの課題ではなく、日本のキリスト教の課題でもあります。さらに、先生は一言も「神の宣教」と言われませんが、神の宣教の中で宣教し、考え、行動しておられるのが本書から伝わります。今、日本の一部の神学者、牧師は「神の宣教」を批判していますが、本書はこの議論に一石を投じるでしょう。教理、信仰告白、規則重視の教条主義に対する十字架の神学からの批判は、現在の日本の一部の教団への問いかけになると同時に、神学的思考を軽視する行動重視主義への批判にもなるでしょう。
先生の論文集を訳した経験から、また本書を原書と同時に読み、翻訳者の労に深く感謝しています。先生は独特の言葉を創造されますからね。ただ、訳文が堅く、言葉が難しいという印象が残ります。一六頁の初版序文「水牛神学からタイにおける神学へ」は「水牛からタイにおける神学へ」、七二頁の副題「キリスト教世界の宣教活動」は「キリスト教の世界宣教活動」、一三〇頁の小見出し「神の怒りの神学 対『歴史を無視する』神学」は「神の怒り 対『歴史を無視する』神学」ですね。ともかく先生の重要な神学遺産を日本語で読めるのは喜びです。主の平和。
(いわはし・つねひさ=日本キリスト教団紅葉坂教会牧師)
(A5判・三四〇頁・定価三三六〇円〔税込〕・教文館)
『本のひろば』(2012年1月号)より