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内容詳細

「人格なき人権は空虚である」
第二次大戦の敗戦に至るまで、日本にはキリスト教的な「人格」概念は知られていなかった。戦後、日本国憲法の制定により初めて導入された「人権」理念とそれを支える「人格」概念は、日本人の内面まで本当に浸透したのだろうか。
上巻は人格論を視座に、明治維新以後の大日本帝国憲法と「和魂洋才」を基盤とした近代化の問題点を明らかにし、戦後の日本そのものを神学的に考察した上で、日本における「人間」理解と自覚をめぐり、キリスト教的真理の弁証の道としての人間学を論じる。

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書評

日本人は本当に「人格」を会得できたか

大木英夫著

人格と人権

キリスト教弁証学としての人間学 上

 

古屋安雄

本書の著者が前著の大著『組織神学序説』(二〇〇三年)を出版してから、久しぶりの新著なので、読者の中には、著者がまだ健在であるかといぶかられた人がいるかもしれない。聖学院の院長と理事長は若手に譲ったものの、大学院院長としてはなお健在で、知的にはいまなお旺盛である。その証拠が本書である。

副題として「キリスト教弁証学としての人間学」となっているが、その人間学(上巻は人格論、下巻は人権論)は極めて著者の実存論的な「回心」と、哲学的なフッサールの現象学的な「人間学」と結びついたものである。

したがって、議論は日本人から、またグローバルな世界人との対話から始まる。長崎の原爆犠牲者でカトリックの永井隆、『基督教の辧証』を書いた田辺元、あるいは『神やぶれたまふ』を歌った折口信夫(釈迢空)、『英霊の声』を書いた三島由紀夫から、最初の神学者と呼ばれるアポロジスト(ユステイノス、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネス)、およびアウグスティヌスにまでおよぶ。

アウグスティヌスの人格理念から、現代状況のフッサールの問題提起におよび、バルトとブルンナーのイマゴ・デイ論争の違い、著者とパンネンベルクの「歴史の神学」の違い、それからニーバー兄弟の弁証学的人間学、そしてクローナーの哲学から神学への弁証を見る。つまり、「我と汝」関係を論ずるのである。

著者によれば、すべての違いは「我と汝」の違いであり、哲学者のリヒャルト・クローナーが、R・ニーバーの『悲劇を超えて』を読んで哲学から神学に移ったのは、神が「もの」から「あなた」に変わったからである。

そこから、日本における人間学の問題に移り、和辻哲郎の「人間学」の問題、西田幾多郎や鈴木大拙の「たましい」と聖書の「霊・プニューマ」の違いを論じ、日本にはまだ「人格」の確立のないことを確認するのである。

本書を読んで、影響力のある二人に贈呈した。一人は国際政治学者の坂本義和君である。彼から私に贈られてきた『人間と国家』(上・下、岩波新書)に、彼は回想を書いている。それによると、熱心なクリスチャンである両親に育てられ、私の父から受洗したが、私の父をはじめとする戦時中のキリスト者の態度につまずいて教会に行かなくなったという。その後も、キリスト教的な平和主義運動を展開しているが、キリスト教をはっきり信仰として告白していない。坂本君は本書をどう読まれるのであろうか。

もう一人は、自由学園園長の矢野恭弘君である。彼は無教会の熱心なクリスチャンであるが、自由学園の創立者である羽仁吉一・もと子夫妻は植村正久と高倉徳太郎の信仰の指導を受けた人々であった。つまり、無教会の内村鑑三とは信仰上では無関係である。ところが、彼らは植村亡き後の富士見町教会のお家騒動から、教会を離れた人々であった。羽仁夫妻が自由学園において毎朝の礼拝にかけた情熱にもかかわらず、最近、私の同級生の葬式が神式で行われたのを見て、また学園と関係の深い人の葬式が仏式で行われたと聞いて、教会を離れたキリスト者の問題を感じたのである。矢野君は本書をどう読まれるのであろうか。

人間を相手にしている彼らのような人々が多く、本書を読まれることを願っているものである。もちろん、そのためにも下巻が一日も早く出版されることを願っている。人権に関心をもつ人々に「人格なき人権は空虚である」ことを論じているからである。

(ふるや・やすお=聖学院大学大学院教授・ICU名誉教授)

(A5判・三五六頁・定価三九九〇円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2011年11月号)より