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内容詳細

キリスト教神学と自然科学の新たな対話

20世紀のバルトとブルンナーの論争以降、不毛の領域とされてきた「自然神学」に新たなヴィジョンを与える画期的な試み。幅広い学問領域を縦横に渉猟しながら、神存在の証明としての自然神学ではなく、科学的知や日常的な経験とキリスト教的神理解との共鳴を目指した斬新な論考。

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書評

キリスト教神学と自然科学の新たな対話

A・E・マクグラス著

芦名定道、杉岡良彦、濱崎雅孝訳

「自然」を神学する

キリスト教自然神学の新展開

 

神代真砂実

「自然神学」という言葉は複雑な思いを引き起こす。一方で、かつてバルトとブルンナーの間で戦わされた、いわゆる「自然神学論争」を知る人、そして、つまるところ、自然神学を否定するバルトの立場に賛成するか、親近感を覚える人にとっては、自然神学というのは、あまり近づかない方がよいもの、胡散臭いものに感じられる。他方、ブルンナーに賛成する人は言うまでもなく、バルトに賛成の立場の人であってさえも、何らかの自然的な神の認識というものがあるのではないかということを、体験的に考えないではいられないところがある。そういう状況にある私達にとって、マクグラスの『「自然」を神学する』の登場は、たいへんに意義深い。

ここでのマクグラスの立場は、この題名によく示されている(これは原題とは異なっているが、訳者の素晴らしい工夫である)。一言で言えば、自然を神学的に見る、考察するという意味での「自然神学」を彼は主張する。中立的に(あるいは、中立的であると思い込んで)自然を観察するのではなくて、明確にキリスト教信仰に立って自然を理解しようとする。従って、これは「自然神学」というよりは「自然の神学」と言った方がよいかもしれない。「自然神学」という言葉には、初めに触れたように、ある種の否定的な印象がついて回るところがあるからである。実際、マクグラスも、特に近代以降の理神論的な自然神学と自らの立場との違いを明らかにする作業を丁寧に行なっており、その議論は示唆に富む(特に第七章)。

大著ではあるが、特に難解とは言えない。それでも、読みやすさということから言えば、まず、全体の導入である第一章を読み、さらに第六章・第八章に目を通すと基本的なことがわかるので、それから通読するとよいかと思う。このように言うのには他にも理由があって、第二章から第四章あたりに展開されている「超越的なものへの探求」についての議論は、やはり、かつて強固なキリスト教的文化が存在した欧米の思想や芸術を背景および例としているので、異なる文化的背景を持つ私達には、いささかなじみにくい。「超越的なもの」に対する感性に大きな開きがあるためである。言い換えれば、本書でのマクグラスの見方を参考にしつつ、私達は私達なりの「自然の神学」を形成していかなければならない。マクグラスにしても、本書を完成した体系としてではなくて、何よりも「自然の神学」形成の第一歩として提示しているのだからである。

ついでながら、私自身が興味深く読んだのは「識別と知覚の心理学」と題された第五章である。やや専門的な議論ではあるが、私達の「見る」という行為が、いかに特定の背景に基づいてなされるものであるかを明らかにしてくれているので、通俗的な科学性・客観性を根拠にして信仰に対して否定的な態度をとる人達に私達がどう対応していったらよいかを特に考えさせてくれる部分である。また、震災の経験をした私達には、自然の善性を論じた第一二章(ただし、あまり詳しくはないのが残念だが)も、たいへんに興味を引く。

こういうわけで、たいへん刺激を与えられた本であるが、最後に、この本を通して私達が「自然の神学」を前進させていく上で考えなければならないと思わせられた点を挙げて、読者の思索を促したい。一つは、既に述べた、「超越的なもの」を日本の文脈において、どのように捉え、伝えられるかということ。もう一つは、自然的な神認識の問題である。「神を知る」というのは、「神が存在する」という理解に達するだけでよいのか。それとも、「神(イエス・キリスト)を救い主として知る」ことが欠かせないのか。さらに、人間が「神の像」であることが、ここでは人間の所有として捉えられているが、この理解でマクグラスの目指す聖書的、三位一体論的立場と言えるだろうか。

(こうじろ・まさみ=東京神学大学教授〔組織神学〕)

(A5判・四八二頁・定価五〇四〇円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2011年12月号)より