税込価格:1980円
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内容詳細

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書評

悲しみの中の愛

永野昌三

島崎光正悲しみ多き日々を生きて

久米あつみ

この書は詩人である著者が、島崎光正の詩をこよなく愛して、その生涯に寄り添いつつ深く詩の一つ一つを味わい、その読書のよろこびを人々と分かち合おうとするものである。肉体に刺を負い、父母とはあまりに早い別れを経験し、戦時中は国家権力による暴力で、いわれない捕囚生活を半年も強いられるという理不尽を耐えなければならなかった詩人の深い孤独に同情をよせつつも、著者はその境遇の中から詩人がどのように転機を見出し、どのように発展をつづけたかを観察する。とくに著者が問題としているのは詩と信仰の関係あるいは接点である。「キリスト教の信仰詩篇を試みる意図は少しもなかった」と表明しつつまぎれもない「信仰詩篇」を書き続ける島崎の歩みの中に、詩作者としての気遣いと敏感さを読み取る著者は、「あとがき」の中で森明の「霊魂の曲」の読後感を書いている。これは序文の中で加藤常昭氏が言っておられるように「珍しい趣向」であり、さらに言えばやや違和感を覚える終わり方である。しかしこのたびこの部分を読み直して、「真実の信仰を勝ち得るためには、信仰の扉を無限に叩き続けることしかないのではあるまいか」という条りに到った時、著者の言いたいことが分かったように思えた。「冬の旅」と題する詩の紹介の中で、著者はこう言う。「受洗をし、信仰をもった者が信仰の力によって、新しい進路を示される。そこから人生の第一歩を始めようとしたが、受洗の後にきた〈嶺〉に光は、彼の身にとどかず新しい試練にさらされる。……ここには神を信じたことによって、さらなる信仰がうまれることの証明を物語っている」(一一一頁)。 このような激しい、しかし純粋な信仰のドラマを島崎の詩と生涯に見る著者は、「私のあらゆる詩は神に捧げられている」との島崎の言葉を取り上げて、「現代の詩人の中で、これだけハッキリと『私のあらゆる詩は神に捧げられている』といえる詩人はほとんどいないのではなかろうか」と言っている(一五二頁)。 この言葉はそのまま現代詩批判にもなるが、著者はさらに強い口調で言う。「今日、現代詩の中で『黙示』のような作品を読むことはできない。自己を見つめる時間も、考える時間もない時代なのである」(一八〇頁)。また「詩はただ、自然に発生するままに書けばよいというものではない。詩人には書くべき理由があり、書かねばならない詩人の宿命があると思う。光正氏の詩作はまさに彼の宿命によって詩が書かれていると思う」(五六頁)と発言する。 島崎光正の「書かねばならない宿命」とは何か。幼くして生き別れた母への思慕を核として、人との出会い、神へのまなざし、社会への怒りと提言、等々に拡がって行く情念であり経験であろう。「一度は詩集『故園』で、祖父母の愛を、さらには、母への愛を重ねて書くことで、悲しみの中に、彼は生きて来た。詩集『早苗』を出版することは、新たに自己への問いかけとしての存在の悲しみと思慕の確認である。……存在の悲哀が彼を支えた。悲しみこそ神の愛の柱であったからだ」(一四四頁)。この、「悲しみの中の愛」を島崎の中に見出す著者のまなざしは限りない共感に満ちている。 詩作者である著者はまた、一々の詩篇を紹介しながら「後半の四行がいい」「このたった二行の詩句が全体の詩の構成をまとめ……」「この四行の詩句は、光正氏独特のユーモアに満ちた表現」という具合にいわば詩の見所、勘所を示してくれるし、時には分析的に、時にはただ静かに祈りの心を持って鑑賞する。 著者自身を含め、多くの人々が詩人島崎に出会い、どのような影響を与え、また与えられたかを記す部分も誠に興味深いものであった。森有正との出会いを書いたあと、「光正氏は人と人との交わりを実に大切にした人であった」と著者は言う。評者もまた、この感慨をともにする一人である。

(くめ・あつみ=フランス文学者)

(四六判・二四〇頁・定価一八九〇円[税込]・教文館)

『本のひろば』(2010年6月号)より