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内容詳細
問1 わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか?
答 わたしたちに命を与えてくださった神さまを知ることです。
現代人に「生きる目的」を問いかけ、神との出会いへ導く信仰問答。
好評であった『明解カテキズム』『続・明解カテキズム』(キリスト新聞社刊)を全面改訂し、合本にした新版。
「すでに公刊された『明解カテキズム』と『続・明解カテキズム』の成果を無視するのではなくて、それらを継承しながら、文言をもっと分かりやすく、明瞭簡潔に解説することを心がけました。したがって、カテキズム文言の解説は、これまでのものと重なっている箇所もあります。同時に、書き改めた部分、一部修正を加えた部分、文章を推敲した部分なども混在しています。このようなプロセスを経て完成したカテキズムは、改革長老教会の伝統を自覚的に継承しているがゆえに、個人の営みであるはずはなく、教会の教会によるカテキズムとなっています。」(あとがきより)
【執筆者】
乾元美(日本基督教団横浜指路教会伝道師)
内城恵(羽咋教会牧師)
兼子洋介(富田林教会牧師) 川島直道(錦ヶ丘教会牧師)
清藤淳(和歌山教会牧師)
関川瑞恵(大森めぐみ教会牧師)
中島善子(御殿場教会牧師)
服部修(蕃山町教会牧師)
増田将平(青山教会牧師)
関川泰寛(東京神学大学教授、大森めぐみ教会牧師)
書評
「生きる目的」を問い、「神との出会い」に導く
吉村和雄
『子どもと共に学ぶ新・明解カテキズム』の前身は、連合長老会日曜学校委員会によって二〇一五年に刊行された『明解カテキズム』です。その後、二〇〇九年にそれを補う内容の『続・明解カテキズム』が出版されました。今回の『新・明解カテキズム』は、これまで出された二冊分の内容を全面的に改訂して一冊にまとめたものです。
内容は、初めに三要文が掲げられ、序として「生きる目的」、第1章聖書、第2章創造と堕落・人間の罪、第3章救いイエス・キリスト、第4章使徒信条、第5章十戒、第6章主の祈り、第7章教会、と続き、さらに第7章の中に、第1節礼拝、第2節説教、第3節聖礼典、第4節洗礼、第5節聖餐、第6節伝道という項目が設けられています。この内容で、問1から問までの問答と、関連する聖書の箇所、そして解説が書かれています。
このカテキズムは、「子どもと共に学ぶ」という標題が示すように、子どもたちの信仰教育を目的としています。多くの教会に、教会学校や子供の教会があって、そこで子どもたちを中心とした礼拝が守られ、子どもたちに対する伝道と信仰の教育がなされています。その礼拝では当然説教が語られるのですが、多くの教会で信徒がそれを担当しています。牧師の指導を受けながら説教をするのですが、その説教に教理的な筋を通すことは、容易ではありません。多くの場合に、聖書に書かれている出来事を、単なる興味深い物語として語ってしまうか、あるいはまったく聖書から離れてしまうことも少なくありません。以前わたしが自分の教会の附属幼稚園で説教をしたときに、子どもたちが「それは一七番の話だよ」と言うので、何のことかと思ったら、幼稚園にある聖書物語集の第一七巻の話だということでした。クラスで教師たちが読み聞かせるのですが、単なるお話としては聞いても、それが伝えている信仰の真理は受け止められていないのです。子どもたちに語る場合には、どうしても物語が中心になりますが、そこには教理的な筋道が明確でなければなりません。そのような意味で、子どもの信仰教育に携わる教師たちが、子どもと共に信仰の筋道を学びながら御言葉を語り、あるいは分級における信仰指導の助けとなるものが、日本の教会には必要です。
このカテキズムの第1問は「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」、答えは「わたしたちに命を与えてくださった神さまを知ることです」です。その解説の初めにこの「問いは、カテキズムが最初から、わたしたちに決断を求めていることを意味しています」とあります。ここにこのカテキズムが目的としていることが明確です。それは、子どもたちを信仰の決断へと導くことです。問いと答えを繰り返しながら、現代の日本を生きる子どもたちが「神さまを知る」ように、つまり神との深い愛と信頼の交わりの中で生きるように導くことが、その目的です。この目的が明確になることは、教会学校の、あるいは子どもの教会の方向を明確にするものと思います。
このカテキズムの大きな特色は、毎年二回、これに基づいた教案誌が発行されていることです。そこでは、カテキズムの各問答についての、さらに深い黙想と説教例が挙げられ、また分級で使える教案も紹介されています。こういうものの助けを受けながら説教と分級の指導ができることは幸いです。
このカテキズムは「子どもと共に学ぶ」カテキズムです。学校の授業のように教師が上から教えるというのではなく、共に学ぶのです。それは教師が子どもたちの信仰の同伴者になるという意味でもあると思います。教理の言葉はどうしても解説調になりますが、同伴者である教師がそれを伝えるならば、それは証しの言葉となって、子どもたちの心に届くでしょう。
(よしむら・かずお=単立キリスト品川教会牧師)
『本のひろば』(2018年4月号)より