ベスト👍 フィクション
『消え失せた密画』
エーリヒ・ケストナー 著
小松太郎 訳
中央公論新社 刊
2024年4月 発行
990円(税込)
376ページ
対象:中学生以上

“8歳から80歳までの子どもたち”へ贈る無類に愉快なミステリー

ベルリンで代々肉屋を営むオスカル・キュルツは、ある日突然それまでの人生に“急にどうにも、やりきれなくなっちまって”、家族と仕事をほっぽり出して旅に出てしまいます。そして偶然訪れたデンマークのコペンハーゲンのホテルで、一人の若い美しい女性と出会いました。彼女(イレーネ・トリュープナー)は有名な美術品蒐集家の秘書をしており、60万クローネで落札したばかりの高価な密画をベルリンまで持ち帰るところだったのです。ところが、同じ競売で落札された別の骨董品が盗まれたという新聞記事を見て不安を覚えたトリュープナー嬢は、ベルリンまでの密画の搬送にキュルツ親方の手を借りることを思いつきました。その後、コペンハーゲンの街中でトリュープナー嬢に声をかけたルーディー・シトルーフェと名乗る謎の美青年や、密画を狙う盗賊団も入り乱れて、この正直者の肉屋の親方の道中は次から次へととんでもない事件が起こるのです。さぁ、真面目で正直者、人を疑うことを知らない善良なキュルツ親方は無事に高価な密画をベルリンまで運ぶことができるのでしょうか。

若い頃から劇評を数多くこなし、自身も映画や演劇の脚本を手掛けていたケストナーは、物語の登場人物のセリフ回しや会話、大勢の人間が同時に動き喋るシーンを見事に描いており、読者の頭の中には自然とイメージが沸き上がってきます。カメラの映像が切り替わるように場面が転換していくテンポの良さも、読者をワクワクさせる魅力的な構成です。ケストナーとほぼ同時代を生きた小松太郎氏の翻訳は、少し古めかしい印象はあるものの独特の上品なおかし味を醸し出しています。

とはいえ、ケストナーが1935年に発表したユーモアミステリー。時代と作者の置かれた境遇を想像すると、あまりに牧歌的な内容に驚きを覚えてしまいます。ナチスににらまれ、自由な執筆が禁じられていたケストナーが戦時中に書いたこの明るく楽しい作品は何を語りかけてくるのでしょう。私は社会の中に疑心暗鬼が蔓延している時、良い人はどこまでも圧倒的に善人で(とはいえ、騙されたと知ったキュルツ親方が仮装舞踏会の会場で大暴れをするシーンには、思わず笑ってしまいますが)、悪漢たちもどこか間抜けで憎めないというこの作品の描く人間に対する優しさに、つかの間心を救われた読者もいたのではないかと想像するのです。ナチス時代もドイツを去ることがなかったため様々に批判されたケストナーですが、「抵抗の作家」の抵抗の仕方はもしかしたら「読む人の心に人間性を取り戻させること」だったのかもしれない―—物語の幸せな結末を目にして、ふとそんな風に考えました。(か)

※表紙画は岩波少年文庫『あたしのクオレ』のイラストを描かれた本田亮さんです!

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