井上ひさし『東京セブンローズ』
ISBN:9784163183800
1982(昭和57)年「別冊文藝春秋」初出。
この作品は日記文学の形式を借りつつ、終戦前後にかけての社会的・人心的混乱をバックグラウンドとし、占領軍の「日本語ローマ字化計画」の粉砕のために立ち上がった主人公と七人の女性の活躍を描いた力作である。 主人公たちがGHQと渉り合いながら日本語を守って行こうとする姿からは、「祖国とは国語のことである」というシオランの名言が想起される。この作品自体が徹底して旧漢字・旧仮名遣いで書かれていることからも、 著者の日本語への愛着と見識が並大抵のものではないことに敬服の念を禁じ得ない。
東京大空襲によって東京の町並みはほぼ壊滅状態となったが、教文館は辛うじて爆撃と類焼を免れ、1946(昭和21)年にはアメリカから贈られて来た聖書の販売を開始している。この作品の中でも、教文館は被災を免れたビルとして、端役ではあるが舞台登場の栄誉を与えられている。以下はその部分の抜粋である。
本郷バーの元主人が小耳にはさんだところでは、先づ都が「聯合軍兵士やこれからどんどん訪れる外國人の好みに投じた立派な土産品を豊富に取り揃へて彼らの旅情を慰めなければならない」と言ひ出したのだといふ。指定販賣店は、日本橋、新宿、銀座の三越はじめ、銀座、浅草の松屋、上野、銀座の松坂屋、日本橋白木屋、伊勢丹、高島屋、蔵前久月總本店、銀座大和商會、神田尚美堂、服部時計店、教文館、帝国ホテル内御木本など三十七店がすぐに決まった。(以下略)
「文子と武子、それから牧口加世子さんと黒川芙美子さん、この四人は帝國ホテルに女給仕として入ってゐる。山本酒造店のともゑさんと古澤の時子さんは角の兄のお妾さんだった美松家のお仙ちゃんと一緒に銀座四丁目の教文館四階の日本水道株式會社清算事務所に勤めてゐる。それぞれ結構な勤め口だ。その勤め口を捨てて團扇屋の女小僧になれとはとてもいへないね」。(以下略)
「言語課長と言ふのは、その海軍少佐のことですか」 「さう、GHQ民間情報教育局の言語課長兼言語簡略化擔當官。何でも漢字や片假名平假名をすべて廃止して、日本語の文字をローマ字にしてしまはうと主張してゐる男ださうだ。(中略)」
小林事務官が去った後も、自分はずいぶん長い間、席を立たずにゐた。小一時間もそのまま凝としてゐたらうか、やがて自分は意を決して立ち上り、通用門から銀座へ向かった。教文館四階の日本水道株式會社清算事務所で聞けば少くともお仙ちゃんが嘘をついてゐたかどうかはわかる。(以下略)