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教文館物語

教文館ものがたり  明治・大正・昭和・平成の130年

はじめに

1933(昭8)年竣工当時の教文館ビル

1933(昭8)年竣工当時の教文館ビル

1885(明治18)年、アメリカから派遣されたメソジスト教会の宣教師たちが、伝道用の書籍やトラクトを販売したり、出版活動をするための組織を作ったのが、教文館の始まりです。そして1891(明治24)年には、銀座に書店を開店、それから124年間、銀座の老舗書店・出版社としてお客様に親しまれてまいりました。関東大震災、太平洋戦争と、度重なる試練をくぐり抜けて現在に至る、130年の教文館の歴史をご紹介します。

メソヂスト教会問答

メソヂスト教会問答

教文館を生み出したのは、アメリカから日本宣教のため派遣されてきたメソジスト監督教会(当時は、美以教会あるいは美以美教会と呼ばれた)の宣教師たちでした。キリスト教禁教の高札が降ろされた一八七三(明治六)年、日本伝道の志に燃えた宣教師たちが相次いで日本に上陸しましたが、その中には、すでに中国伝道で経験を積んだR・S・マクレーほか四人の宣教師とその家族がいました。

かれらは宣教団を結成し、横浜、東京、函館、長崎に分かれてその働きをはじめましたが、一年もすると、賛美歌や信仰問答書、教会規則などの必要を感じ、さっそく翻訳に着手しました。

最初の書物と思われる伝道文書『真の神様乃御恵の端書』は一八七五(明治八)年、『メソヂスト教会問答』が次の年、デビソンの『讃美歌一』は一八七七(明治一〇)年に刊行されます。宣教団の伝道は進展を見せ、開始十一年目の一八八四(明治一七)年には、日本年会を組織することになります。教区も最初の四つから八つに増え、設立メンバーは、宣教師一三名に加え、日本人牧師も一九名になっていました。

一八八五(明治一八)年に第二年会が東京築地で開かれた折、H・I・コレル宣教師が、これまで雑書会社の名前で出版されたトラクトや書籍の配給・販売を管轄し、将来的には出版活動を行うための責任者を決めようという動議を提出し、一同の賛意の下、L・W・スクワイア宣教師が最初の出版代理人に選出されます。九月九日のことでした。これが教文館誕生の日です。

明治時代

すでに築地時代に美以美活版所という印刷所を併せて経営していましたが、一八九二(明治二五)年に閉鎖、機械類を東京英和学校(のちの青山学院)実業部に貸与します。この印刷所がまた、一九〇〇(明治三三)年には、教文館の事業に戻り、しばらくは青山印刷所として運営されていましたが、一九〇六(明治三九)年銀座に四階建ての建物が出来ると、その後背地に教文館印刷所として移転しました。

この当時の出版物には、教会の規則や賛美歌などのほかに、伝道用のトラクトが多いのに驚かされます。毎年二〇から三〇ほどの新刊が出されています。あとは、神学校の教科書とならんで、日曜学校の教課・教材です。とくに、万国日曜学校学課に基づく教文館刊行の教材はメソジスト教会に限らず、バプテスト、日本基督教会、組合教会など他教派でも広く使われていました。また、一九〇三(明治三六)年に各派共通の『讃美歌』が出来ると、教文館はその発行元として日本のキリスト教界に広く知られるようになりました。

一九〇七(明治四〇)年、日本の主要な三つのメソジスト教会、メソヂスト監督教会、南メソヂスト監督教会、カナダ・メソヂスト教会が合同し、日本メソヂスト教会が誕生しますが、教文館は、教会の出版部門からは独立し、新たにメソジスト監督教会宣教団の管理のもと、さらに発展を続けることになります。

この明治時代の教文館の発展を手短に語った文章が存在しますので、ご紹介しましょう。

「(一)教文館の沿革、教文館が世間から其の存在を認められるやうになつたのは、今より二十五年前即ち明治十八年頃である。其の頃は今の新橋に近く竹川町に小さき店なりし〔ここら辺は、年代的な錯誤でしょうか─筆者註〕明治二十五年頃銀座三丁目の角今の三枝商店の在る所に移つて稍大きな店を構へた米国人ではビシヨツプ氏ワドマン氏日本人では神原氏清水氏が経営に当つてゐたやうである店員も僅かに二三人にて一切の用を弁じてゐたのであるその頃クリブランド氏も一時支配人であつたことがあるさうである。明治二十八年頃銀座四丁目の以前の場所に大きく店を設け、ワドマン氏清水氏に代りてカウエン氏と堀田達治氏とが、肝胆相照して其の敏腕を揮ひ、読書界の要求につれて事業は益々盛大になつた。それと同時に店の手狭を感じて、遂に明治三十九年七月現在の場所に四層楼の大建築をなして、厳然たる店構をするに至つたのである。それと同時に青山学院構内にあつた、印刷部は同所に引越した。其後の教文館は営業本位の独立時代に入つたといふべく、販売取引共に長足の進歩を見たのである。間もなく現在のスペンサー氏がカウエン氏に代つて、教文館の全権を掌握されることになつた。一毫も苟くもせざる同氏の老練なる手腕と緻密なる頭脳とに依つて、教文館の基礎は益々堅固になつた。内を先づ堅くして、外に展びやうとするのが、同氏の遣口なので、教文館の将来は益々好望である。
(二)教文館の販売、教文館の販売書籍は宗教美術文学政治のものが多い。伝道の一機関であつた教文館の立場として、祖は尤も成る次第である。現在あらゆる書物を備ふる点に於ては、丸善に及ばないけれども、併しその専門の販売書物に於ては、東京における如何なる書店よりも値の安いことは事実である。教文館が『あまり書物を安くうるので困る』といふ苦情が他の書店の人の口からポツ?洩れたのを聴いたことが度々ある。併しそは本屋の愚痴であつて、読書家にとりては好消息といはねばならぬ。
(三)教文館の出版物、外国書籍の販売を主としてゐた教文館が出版事業に於て、やゝ立おくれた感のあるのは、遺憾ではあるが、止むをえぬことである。併し一年十数部の書籍を出してをる時もあるのである。今その書籍目録を繰つて見て、目星しいものを拾ひ出せば、古い所では田中達氏訳『メソヂスト史』、同氏訳『新約筌蹄』、値賀虎之助訳『ウェスレー伝』山鹿旗之進氏訳『幸福の生涯』、神原安文氏訳『テトス物語』、等又少しく新しいところでは、安孫子貞次郎氏訳『みあしのあと』、根本正氏『日々の力』、原野彦太郎氏著『以賽亞書講義』。柏井園氏訳『ダンテ研究』、同氏訳『ドラモンド伝』等であらう。又現在のものでは、田中達氏編『若菜籠』柴田流星氏の『お伽草紙』柏井園氏の『耶蘇の教訓一班』海老澤亮氏の『讃美歌歴史』等である。近く出版されべきものは、田中達氏訳『基督教真理』上杉憲章氏訳『東方の博士』であつて、両者とも内容極めて豊富なる良書で、菊版五百頁に上るであらう。今後の教文館が出版界に雄飛する時あらんとは強ち空想ではない。今年から出し初めた月刊雑誌『教文評論』も未だ幼稚なるを免れないが、書籍の大海に客を渡す小舟として少なからぬ便宜を供してをることは事実である」(『護教』明治四三年九月二四日発行、一八頁)。

大正時代

宣教団の管理下で再出発した教文館が直面した最初の問題は、経営上の問題でした。銀座の表通りに立派な店構えは出来ましたが、資金不足に悩みます。そこで、先に述べた印刷所を売却することになり、福音印刷に引き継いでもらいました。

福音印刷は、横浜に本社があり、当時は聖書の印刷を一手に引き受ける評判の高い印刷所で、銀座はその支店になりました。その支店長として赴任してきたのが、後に安中はなと結婚する村岡でした。

大正時代は、出版社としてよりも、店の販売に重点が置かれ、和洋書・輸入文具などが銀座の街に彩を添えることになります。アンダーウッドのタイプライターやビクターのレコードなどの販売も手がけています。実は、出版活動が低下したのには、理由があります。それは、次に述べる日本基督教興文協会の存在があったからです。

興文協会に話を移す前に、やはり大正時代の教文館を語った記事をここでも紹介しましょう。書いた永田重蔵は大正一〇年に教文館に入社、戦後、取締役になった人です。

「労働争議─明治、大正にかけて教文館には印刷部があり種々の出版物も自家印刷をしていた。ところが一大問題が起き上った。それは賃上げ要求による争議であった。今でこそ賃金値上げの労働争議は各方面で日常のことであるが、当時としては真にめづらしいもので、其の結果印刷部は廃止せられ、印刷所は福音印刷に譲渡せられてしまった。私が教文館に入社したのは其の直後のことである。〔ここは著者の錯誤があり、印刷所が福音印刷へ売却されたのは、大正三年で、永田の入社よりかなり前のことになります─筆者註〕当時の福音印刷の社長の御子息が村岡花子さんの御主人で、当時、村岡花子さんは教文館の前身興文協会でウエンライト博士の下で働いておられた。
前掛、角帯の店員─煉瓦作り、四階建ての教文館ビルは華やかな当時の銀座の中でも一きわ目をひく建物であった。一階は店舗で、二、三階は事務所、四階は一部を倉庫として使用し、其の他は職員の宿舎にあてられ、常時十人内外の人達が居住していた。当時の職員は二十名位いで、前掛角帯姿で店頭に頑張り、洋書、伝道文書を販売していたのであるから、今から思うと隔世の感がある。
その頃の銀座─教文館の近隣、山野楽器店、十字屋、御木本真珠、玩具のキンタロウは昔からの隣組、木村屋パンは今の三越のところにあった。欧米文明の吸収に躍起となっていた日本の文化人が教文館の店頭に備えられた外国製のステーショナリーに殺到したのもこの頃であった。在日外国大公使館、各商社、各種団体から事務用品はおろか、パーテイ用のローソクにいたるまで註文があり、羽のはえた様な売れ行きを示したものだ。
洋書─洋書輸入販売はその伝統を誇り、特に、宗教、神学、文学、社会関係は他店の追従を許さなかった。学校図書館の固定した顧客を持ち牧野伸顕、後藤新平など当時の有名政界人もよく店頭にその姿をあらわした。
メンソレタム─ちょっと変った事としては、教文館が、ビクター・レコードの代理店となり、店舗の一角に試聴室を設けレコードの販売をしていたことである。また、現在近江兄弟社が製作している、メンソレタムは当初教文館に持ちこまれたのであるが、いくら何んでも文書伝道の教文館が薬品は─と云うわけで、ヴォーリス氏に譲ったのである」(一九五六年頃の記事。おそらく『キリスト新聞』と思われる)。

日本基督教興文協会は一九一三(大正二)年に生まれた出版社です。

これは一九〇〇(明治三三)年に結成された駐日宣教団の連合組織である日本ミッション同盟が、日本におけるキリスト教文書の欠けを補い、それを充実させるために各派宣教団に呼びかけて共同出資し、日本側のアドバイザーも加えて営まれたエキュメニカルな出版社で、南メソジスト監督教会宣教師ウェンライト博士が主幹を務めました。教文館の経営母体であるメソジスト監督教会宣教団も、これに出資しており、学術的にも水準の高い出版を目指していました。

また、一九一七(大正六)年には、「婦人・子ども部」ができ、ボサンケット女史の指導のもと、『小光子』という子ども向けの雑誌が刊行され、家庭読み物などが翻訳されたりして、幅広い読者を得ています。安中はな(後の村岡花子)は「婦人・子ども部」創設の年に処女作『爐邉』をこの興文協会から出版し、二年後には編集者としてスタッフに迎えられます。

当時興文協会は築地に事務所があり、出版物は、教文館が発売元になっていました。しかも印刷所は福音印刷で、教文館のすぐ裏にありました。そのような関係から、村岡三と安中はなの出会いがあったのです。

村岡花子が興文協会に勤め始めた頃のことを書いた文章がありますので、それをここでご紹介しましょう。

「そうこうしているうちにある日、〔山梨英和の〕校長あてにあるキリスト教出版の責任者であるイギリス婦人〔ボサンケット女史〕から一通の電報がきた。それは私をその出版事業のほうに欲しいという電報であった。
私は甲府にいても東京のキリスト教関係の雑誌に書いていたし、そのころは生涯の作品としてキリスト教文学の道を行きたいと考えていたので、この招きをいい幸いとそれに応じて東京へ帰った。
こんなことで私はそのイギリス婦人の築地の家で彼女といっしょに暮らした。そこで私は英国人が紅茶を飲むことをほとんど毎日の儀式のように考えている習慣をも知った。
午前十時と午後三時。その築地のそれは編集室でもあったので、私たちは毎日いっしょに仕事をしていたのだが、朝十時には必ずメイドがお茶のおぼんをささげて編集室へはいってくる。パンを薄く薄く切ってトーストにして、マーマレイドやほかのジャムを添えてくるのが普通であり、ときどきは簡単なクッキースのこともあった」(「初めて仕事を持ったころ」『随筆サンケイ』昭和三九年三月号、二五頁)。

教文館と興文協会の両方を襲い、大きな危機をもたらしたのは、一九二三(大正一二)年の関東大震災でした。銀座にあった教文館も、築地にあった興文協会も家屋を失い、所有していた在庫や印刷物の鉛版もすべて燃えてしまいます。教文館は年末には同じ場所にバラック建ての店を作り営業を再開します。また、興文協会も青山に事務所を移し、出版活動は継続しましたが、先の見通しを立てることが出来ません。

そのような中、教文館側の申し出により、両者の合併の話が持ち上がりました。興文協会のオーナーであるミッション同盟では、新しい組織を作って両者を統合し、一つの事業体にする案がまとめられ、一九二六(大正一五)年に合併が完成します。その際、日本名は教文館とし、英文名は興文協会が使用していたChristian Literature Society of Japanを名乗ることになりました。

やはり先ほどの永田が震災について書いていますので、ここで紹介します。

「大震災─大正十二年の大震災は教文館をはじめ大銀座を壊滅せしめた。木煉瓦であったため歩道まで燃えてしまった。お向かいの松屋は建築中にやられてしまった。この震災を契機に、他のデパート、三越、松坂屋が銀座に進出して来た。九月に焼かれ十一月には二階建てのバラックが早くもたてられ、クリスマス・セールをはじめた。二階はコロンビヤ・レコードに貸し、同社が川崎に移った後、富士アイスが二階を用いた、この関係が昨年までつづいたわけである」(上掲箇所)。

昭和時代

合併後、残された課題が二つありました。一つは、固有の法人格の取得であり、もう一つは、新しいビルの建築です。この背景には、日本のキリスト教出版事業の宣教師や外国宣教団からの独立ということと、当時ますます険悪になってきた日米関係があったようです。

そのような状況の中で、新しいビルの建築にすべての精力を注いだのは、ウェンライト博士でした。教文館の旧社屋の背後地の借地権を得て、その上アメリカ聖書協会に働きかけ、アントニン・レーモンドの設計になる現在の九階建ての共同ビルが完成したのは、一九三三(昭和八)年九月のことでした。竣工式(十二月)には、当時の大臣やアメリカ大使も列席したと伝えられています。

もう一つの懸案であった法人格の取得は、教文館は文書伝道を使命としており、営利を目的としていないというところから、財団法人となることを願っていましたが、認可されず、やむなくビル竣工の年三月に株式会社となり、教文館の非営利的側面を維持するために、別に日本キリスト教文化協会が、教文館と一体のものとして設立されました。

この文化協会は戦後一九四九(昭和二四)年財団法人として認可され、二〇一二(平成二四)年には公益財団法人になり、現在に至ります。設立時の文化協会の理事としては、当初ミッション同盟から一二名が、日本基督教連盟から一二名が選ばれ、その中から教文館の取締役が選出されるという仕組みでした。最初の社長(当時は会長と呼んだ)は長尾半平でした。

新しい出発をした教文館の最大の出版物は『植村正久と其の時代』の刊行でした。これは、植村の娘婿に当る佐波亘が中心になって収集した史料を元に編纂された明治・大正期の日本キリスト教史資料集で、一九三七(昭和一二)年から三八年にかけて全五巻が、引き続いて二冊の別巻が一九四三(昭和一八)年までに刊行されました。

社長には、長尾につづいて、田川大吉郎が、その後は瀬川寿郎が引き継いで、終戦を迎えます。戦争中は大変でした。新生教文館の生みの親ウェンライト博士もアメリカに帰国し、戦時下のさまざまな圧迫と危機をかいくぐらなければなりませんでした。出版統制を避けるため、一時出版活動も停止したようですが、一九四四(昭和一九)年には出版部のみ新教出版社に統合されます。しかし、店は営業を続け、二度にわたる空襲による罹災も、社員の努力で類焼を免れた、と記録されています。そしてやがて終戦を迎えます。

一九四五(昭和二〇)年度の営業報告書に瀬川が記した営業概況から空襲の様子が分かります。

「昭和廿年度ハ前代未聞ノ国難ニ体処シタリ
昭和廿年一月廿七日帝都中心部ニ大空襲アリ 銀座街モ大被害ヲ蒙リ我社ニ於テハ正面並ニ側面ニ爆弾投下サレ火勢猛烈忽チ銀座四丁目一帯火ノ海ト化シタルノミナラズ地下室電気室ノ側面障壁爆風ノ為メ亀裂ヲ生シ其ノ結果地下水湧出ノ災害ヲ受ケタルモ小職始メ男女職員一同ノ決死的奮闘ニ依リ消火排水ニ勉メ遂ニ本館ヲ完全ニ保護スルコトヲ得タリ 次デ同年五月廿五日第二回帝都中心部ノ大空襲アリシ時銀座街ハ殆ド全滅ノ惨状ヲ呈シタリ 聖書協会建物モ五階六階ヨリ発火シ正ニ本館ニ延焼セントスル危険ニ迫リタルモ小職始メ職員一同猛火ニ突入シ消火ニ勉メ遂ニ完全ニ本館ヲ保護スルコトヲ得タリ」

戦後は、帰国した宣教師が残した外国書籍の蓄えなどもあり、また一時タイム・ライフ誌の独占販売権を入手したことによって好調な滑り出しをしたようですが、教文館ビルの七階から九階をクリスチャン・センターにする構想に伴う軋轢や輸入事業の失敗から急速に経営危機を迎えます。一九五四(昭和二九)年のことでした。

瀬川寿郎を継いだ藤川卓郎が社長を辞任、教文館再建のために会長として迎えられたのが、芦田内閣で大蔵大臣を経験した北村徳太郎でした。やがて五六(昭和三一)年に当時キリスト新聞社の副社長であった武藤富男が専務として招かれ、再建の実務に取り掛かります。

武藤富男は、ウェンライト博士を信仰の師と仰ぎ、裁判官から旧満州国の官僚を経験した人物であり、山積していた係争事件や負債の清算に見事な手腕を振るい、屋上に広告塔を設置するなどして、ほぼ六年をかけて再建を軌道に乗せ、一九六二(昭和三七)年に社長を退任します。

 

しかし、これで、危機が去ったわけではありませんでした。一九七一(昭和四六)年に再び経営危機を迎えます。この間、教文館卸部の設立とそれを母体とした日本キリスト教書販売株式会社(通称、日キ販)の創設(一九六七〔昭和四二〕年)という出来事がありました。

この時代には、『旧約新約聖書語句大辞典』(一九五九〔昭和三四〕年)、教文館版内村鑑三全集(一九六〇〔昭和三五〕年以降、聖書注解全集・信仰著作全集・英文著作全集・日記書簡全集)、『キリスト教大事典』(一九六三〔昭和三八〕年)、『新渡戸稲造全集』(一九六九─七〇〔昭和四四─四五〕年)などの大型企画が盛んに出版されました。

この度の経営危機に対処するために呼ばれたのが、日キ販の専務をしていた中村義治でした。

中村は一九四九(昭和二四)年に教文館に入社、戦後最初の経営危機の時には労働組合を結成し、その後日キ販の設立に尽力して移籍し、同社専務になりましたが、その人望と能力を買われ、一九七二(昭和四七)年に教文館社長に就任、再建のための長い道のりを歩み始めました。それまで二階にあった和書とキリスト教書の売場を分離させ、キリスト教書を別の階層に移して、和書売場を拡充し、その活性化のために大きな力を揮いました。

この時代にも次々と著作集や事典の刊行が相次ぎます。主なものだけでも、アウグスティヌスや宗教改革者の著作集、『日本キリスト教歴史大事典』(一九八八〔昭和六三〕年)、『旧約新約聖書大事典』(一九八九〔昭和六四〕年)などが出ています。

平成時代

平成時代の始まりはバブル経済の末期と重なりますが、出版界の好景気にも押され、売上の拡大が続きます。

しかし、バブルの崩壊と共に急激に売上縮小の時代に移り、一九九六(平成八)年を境に出版業界全体が冬の時代を迎えました。その中で、中村は、ビル内にエインカレムやナルニア国という特色のある売り場を創設し、ウェンライトホール(多目的催事場)を作るなど、現在の教文館の姿を確立しました。日本の書店業界にも大きな功績を残した人でしたが、二〇〇四(平成一六)年に惜しまれて逝去しました。その後、二〇〇五(平成一七)年から渡部満が社長を引き継いで現在に至ります。

現在の教文館

現在の教文館

教文館の一三〇年にわたる歴史を辿ると、日本における文書伝道の困難と、それを何とか乗り越えながら前進を続けてきた、先人たちの熱い志と祈りを感じさせられます。初期の宣教師たちの残した手紙を読むと、資金をどう調達したらよいかという話ばかりです。それは、その後もそれほど事情が変わったわけではありません。

教文館は、これまで福音が日本で確かな実を結ぶための働きの一つを担い続けてきましたし、これからもその使命を担い続けてまいりたいと思います。

本文および写真の無断転載を禁じます。写真については、青山学院資料センター、Mission Photograph Albums-Japan, United Methodist Archives and History Center、赤毛のアン記念館・村岡花子文庫にご協力をいただきました。記して感謝申し上げます。

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