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歴史人物

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歴史人物

 

キリスト教における著名人物、重要人物のご紹介です。人選に偏りがあることは紙面の都合上ご容赦ください。

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アッシジの聖フランチェスコと平和の祈り

フランチェスコの像

Credit:Twice25 & Rinina25 (CC BY 2.5).

フランシスコ会創設者。イタリア中部ウンブリア、アッシジの裕福な織物商の息子として生まれ、さまざまな体験を通してサン・ダミアーノ聖堂の十字架型板絵からの呼びかけを受け、償いの生活と聖堂の修復にあたる。清貧の実践とともに、1224年アルベルナ山で聖痕を受け「太陽の賛歌」を作った。

また、聖フランチェスコの平和の祈りとして広く知られている祈りは、本当は彼の作ではなく、フランチェスコの理想の完全な要約として、フランシスコ会第三会会員の間で唱えられるようになったもの。ここから「フランチェスコの祈り」として定着していったとされている。

ルター(1483~1546)

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16世紀ドイツの宗教改革者。アイスレーベンで「農民の子」(父は農民出身、後に銅山業者)として生まれる。エルフルト大学入学(1501)、法学部進学後、シュトッテルンハイム金工での落雷体験をきっかけにアウグスチノ隠修士会修道士へ転身(05)、12年神学博士、13年以来ヴィッテンベルグ大学神学部教授として生涯聖書注解の講義を続ける。ヴォルムス国会審問後ヴァルトブルグ城退避中(21-22)に新約聖書をドイツ語に翻訳し出版。続いて旧約聖書も翻訳し、聖書全巻のドイツ語訳を完成し出版。アイスレーベンで永眠、生涯の活動の地ヴィッテンベルグに葬られる。

カルヴァン(1509~1564)

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フランスに生まれる。ルターとともに宗教改革の最も重要な思想家。カルヴァンは元来ルターとは対照的に寡黙な人柄だったようだが、1533年頃突然の回心を経験し、ローマカトリックと決別、フランスを去って亡命者としてスイスのバーゼルに住んだ。ジュネーブの市議会が宗教改革を承認した後、何年もの間苦しみながら改革を推進し、宗教改革の基礎となるものを確立した。1536年、彼は26歳で「キリスト教網要」を刊行した。また、個人の救いはあらかじめ神によって予定されているという「予定説」を説いたことで有名。

ウェスレー兄弟

ジョン・ウェスレー

ジョン・ウェスレーの肖像

兄ジョン・ウェスレー(1703-91)はメソジスト運動の創始者であり、弟チャールズ(1707-88)は聖歌作者。兄は1735年に北米ジョージアへ宣教団の一人としてわたる船中でボヘミア兄弟団のメンバーと出会い、キリストのみによる義と神の恩恵による聖化を確信する契機となる。

路傍説教と「トラクト(小冊子)」配布を基本として熱烈な伝道を実践した。一説には、一生に4万回以上の説教と32万km以上の伝道旅行を行ったという。弟は聖歌の伝道的効果を意識して約6000の讃美歌を作曲し、英国の5大聖歌作者の一人として数えられる。

マザー・テレサ(1910~1997)

マザー・テレサ

Credit: India 7 Network via Flickr (CC BY 2.0).

インドで最も貧しい人々のために尽くしたカトリック修道女。「神の愛の宣教者会」創立者。マケドニア出身で18歳の時に修道生活と宣教への召命を感じ、ロレット修道会に入会。1928年修練のためインドへ派遣され、1931年に修道者としての初誓願を立て、シスター・テレサとなる。1946年「貧しい人々の中でも最も貧しい人々に仕えるように」というキリストの呼びかけを聞き、新たな修道会創立を決意。

1948年カルカッタのスラムで貧しい子供たちのために青空教室を始め、神の愛の宣教者会としてローマ教皇庁に承認され、テレサは総長としてマザー・テレサと呼ばれるようになる。その後も「死を待つ人の家」や、「子供たちの家」など、多くの施設を創設し、1979年ノーベル平和賞受賞。86歳の時にカルカッタで帰天しインドで国葬が行われた。2003年10月19日当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福、また2016年9月4日、教皇フランシスコにより列聖され、聖人であると宣言された。

教皇ヨハネ・パウロ二世 (在位1978~2005)

教皇ヨハネ・パウロ二世

第264代ローマ教皇。ポーランド出身。450数年ぶりにイタリア人以外の国籍を持つ教皇として知られる。1978年58歳で教皇に選出され、就任後は、世界各地の教会を訪問するにとどまらず、異なる宗教を持つ国々と積極的に対話を行った。暗殺未遂事件を乗り越え、病気と格闘しながら、生涯を世界の平和へ捧げた。

マルチン・ルーサー・キング (1929~1968)

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米国バプテスト派の黒人牧師、モアハウス大学、クローザー神学校、ボストン大学大学院に学ぶ。1954年モントゴメリーの教会に赴任、翌年大規模なバス・ ボイコット運動を指導。1957年南部キリスト教指導者会議(SCLC)を結成。1963年ワシントン大行進を組織。1964年ノーベル平和賞受賞。1965年頃からベトナム戦争反対を訴える。1968年メンフィスで暗殺。ガンディーに倣う非暴力抵抗主義を貫き、人種差別撤廃を目指す公民権運動を推進。大行進の際の「私には夢がある」など、名演説家・名説教家として著名。キングを記念し北米では1月の第3月曜が国民の祝日。

ダミアン神父(Joseph de Veuster 1840~1889)

ダミアン神父

ベルギーのカトリック宣教者。ルーヴェン、パリで勉学ののち1863年ハワイ群島に宣教師として赴任した。1873年、当時は不治の病であったハンセン病(らい)に冒されて島流しの状態に打ち棄てられていたモロカイ島の800人の病者の惨状に深く心を動かされ、自ら志願して単身らいの遠隔地に移り住んだ。 最初の10年間は島のただ1人の司祭として、宣教のかたわら病者たちの朽ちゆく肉体を介抱する医者の仕事から、墓堀人夫の仕事までを全き献身のうちに果たした。自身も感染し、16年間の活動ののちに最後を迎えたが、その超人的な活動は、病者と共にキリストの十字架による救いに与るという信仰に支えられたものであり、「救らい事業」そのものを超えるメッセージを世人にもたらした。列聖年2009年10月11日に、当時のローマ教皇ベネディクト16世によって列聖される。

内村鑑三 (1861~1930)

内村鑑三

思想家、キリスト教伝道者。東京外国語学校(のち東京英語学校、東京大学予備門)を経て札幌農学校に学ぶ。クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名、1878年にM.C.ハリスから洗礼を受けキリスト教に入信。1885年アマースト大学に入学、シーリー学長の感化により「回心」を経験。1888年帰国。その後貧困生活の中から「基督信徒の慰」「救安録」「余は如何にして基督信徒となりしや」など名著を著した。1900年、一生の仕事となる月刊誌「聖書之研究」を創刊。まもなく聖書研究会を開始。一方「無教会主義の提唱」、足尾鉱毒事件反対運動も展開する。生涯のモットーとした「2つの J(JesusとJapan)」でもわかるように、日本の思想界に日本を超越する視点を、観念的でなく血肉化して与えた影響はキリスト教会のみにとどまらない。

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