ベッドでコミュニケーションツールを操作する福本さん
プロフィール:福本 峻平(ふくもと・しゅんぺい)1987年、東京生まれ。聖学院中学校・高等学校、青山学院大学経済学部を卒業。2002年、原因不明の難病との診断を受ける。10年以上たった2013年、「先天性大脳白質形成不全症」という病名が判明。「この世に生を受けたものはどんな形であれ全てに意味がある」という信念のもと、多くの人を愛し、愛され、神を愛し、神に愛されながら笑顔で生き抜き、2020年11月11日に召天。33歳。
【書評】 神様に愛され委ねて生きた 三十三年の真実な生涯
聖学院中学校に入学した福本さんは、入学式の礼拝で初めて聖書のことばと出合い、やがて教会に通うようになります。音楽部で活躍し、楽しい学校生活を送っていた中学三年時、身体に違和感を覚え、検査入院します。難病のために病名が判明するまでに十年の歳月が必要でした。中高生の時代は多くの生徒が、思春期特有の課題を抱え悩みの多い難しい年頃です。どれほど深い不安や恐怖を覚えたことかと想像します。
彼は病院のベッドの上で神様と共に歩む決意をし、高校二年生の夏に洗礼を受けます。「神様はいつもそばにいてくださり、僕の人生を整えてくださっており、僕が悪いことをしたり、誰かといざこざを起こしたときには、神様が僕の代わりに罪を負ってくださっていることを知りました。」神様にお委ねする決心でした。
青山学院大学ではキリスト者メンバーらにも恵まれ、信仰の仲間たちと祈り合い、生きるために気管切開し、声を失う等の苦難を乗り越えます。三十一回にも及ぶ入院生活で病気との闘いでしたが、ひたすら神様を信じ委ね、賜物を精一杯用いる生き方をしました。伝道のためには飛行機で地方にまで出かける姿には励まされます。
三十一歳の時、指の力もほとんどない状況でキーボードで伝えたお母さんへの言葉、「うんでくれてありがとうございます」には涙があふれました。福本さんにしかできないこと、それは関わってくださったご両親や友人、そして介助者や医師・看護師にも「じぶんにはえがおしかできない」と生きる喜びと感謝を伝えることでした。
ライターの高井透氏により、福本峻平さんの三十三年の真実な生涯が、神様と人に愛されたことであると丁寧な言葉と写真等で語られています。
私たちの人生には、なぜ? どうして? と思うようなことが降りかかります。神様に愛され委ねて生きた福本さんの人生の証しを、ぜひお読みいただきたいと思います。
清水広幸=聖学院中高・副校長/日本キリスト教団・越谷教会員
【書評】今こそ主、求めよ
本書には先天性大脳白質形成不全症という稀少難病に十五歳でかかり、奇しくもイエス・キリストとほぼ同年齢の三十三歳で、御許に召された福本峻平さんの神と人とに愛され、神と人とを愛した生涯が綴られている。
読了した後に、峻平さんの人生が、序章のエピグラフに用いられていた彼自身の暗唱聖句「いつも喜んでいなさい」で始まるテサロニケの信徒への手紙十五章十六節~十八節の御言葉そのものであった事実に胸を打たれる。同時にへブライ人への手紙十一章四節「“峻平”は死にましたが、信仰によってまだ語っています」ということを痛切に思う。彼の語りは、必ずや彼と出会ったすべて者たちが、各々の地上の生涯を終えるまで、生き生きと聞き続けられるに違いない。
不思議に思うことは、 小学校までは 「ヴァイオリン好き」「鉄道ファン」「漢字博士」「理屈や」「負けず嫌い」の少々気難しげな少年が、聖学院中学校に入学し、礼拝レポートの課題のために常盤台バプテスト教会の教会学校に出席してからは、駕くほど自然に教会になじみ、神の愛のなかで自分を愛し、隣人を愛する者へと変えられていったことである。彼の生涯を思い巡らすと、まさに「君は愛されるために生まれた 君の生涯は愛に満ちている」 ということをアーメンと唱えずにはいられなくなる。
この病は筋萎縮性側索硬化症と似た症状を呈し、全身の筋力が次第に麻痺し、自由が利かなくなる過酷な病である。治療法が確立されていない現在、症状が進行することはあっても、良くなることは望めない。峻平さんは十五歳で発症し、この病気を契機に洗礼へと導かれた。高校卒業時には、すでに車いすの生活となり、大学二年の一月には嚥下障害のため胃ろう手術を受け、同年九月、咽頭気管分離手術を受けて声を失った。にもかかわらず 「『外なる人』は衰えていくとしても」彼の「『内なる人』は日々新たにされていく」 (二コリント四・十六〕ことを、身をもって証し続けたのである。
キリスト者推薦生として青山学院大学経済学部に進学し、意欲的に学び、青山キリスト教学生会では常に笑顔を絶やすことなく「会輪」の中心であり続けた。そのことを通し、多くのキリスト者の友に、彼が作詞した讃美歌「今こそ主、求めよ 今こそ主、求めよ 主イエスの御救い 今こそ主、求めよ」との圧倒的な感化を与え続けたのである。
苦難のなかで主にあって動かされず、地上の生の限りは主のご委託に応えて“命を使う” 歩みは貫かれ、大学卒業後には教会事務職員となり、東京バプテスト神学校の通信講座を受講し、「障がい者と教会委員会」委員などの職務も担い続けた。 彼のひたむきな歩みは、 キリスト者のみならず、帝京大学医学部附属病院の医師、ナースたち、また介護者の方々にも大きな感化を与え続けたのである。
事実、難病や多くの世の試練に遭遇し、苦難の中で求道している方々に、キリス卜教学校の教師であることに問いを抱き、途方に暮れている方々に、そして「今こそ主、求めよ」 と大胆に告げることに躊躇を覚えている牧師の方々に、ぜひとも手にとって読んでいただきたいと願う。
島田順好(しまだ・まさよし)=日本基督教団三田教会牧師
難病に侵されながら神の使命を全うしたその生涯
十五歳で原因不明の難病を発症。体の自由と声を奪われながらも「神に与えられた人生」を生き、「自分にできること」を求め続けた一人の青年。三十三歳で天に召された若き「神の僕」の生涯を描いた新刊『なぜ君は笑顔でいられたの?』が発刊された。
「難病で召された青年の生涯を本にしたい。原稿をお願いできますか」。常盤台バプテスト教会の小牧由香さんから依頼を頂いたのが二〇二一年の十月。そしてそれが私にとって、福本峻平という神と人とに愛された「神の僕」との一年にわたる旅の始まりとなった。
難病の発症、そしてバプテスマ
福本峻平さんは、一九八七年五月九日、父・篤英さん、母・綾子さんの長男として東京板橋区に生を受ける。クリスチャン家庭ではない。幼少期は聖書とも教会とも無縁の生活を送っていた。三歳の頃からヴァイオリンを習い始める。とにかく、少年・福本峻平は負けず嫌いだった。テレビゲームでも、旅行先で家族と繰り広げる卓球大会でも、カラオケでも、たとえ大人が相手であっても自分が負けることを受け入れることができなかった。そんな峻平さんにとって、ヴァイオリンは自身のプライドであり、アイデンティティであり、周囲から賞賛を得られる「誇り」そのものとなっていった。中学は私立中学入学を目指した。受験した私立中学校のうち、合格したのはミッションスクールである聖学院中学校。峻平さんはそこで初めて聖書と賛美歌に触れる。そして入学してほどなく、学校から出された礼拝出席の宿題がきっかけで、自宅近くの常盤台バプテスト教会に通うようになるのである。
原因不明の難病が発症したのは、中学三年生の時。歩きながらよくつまずくようになり、不安を覚えた両親は学校の先生の勧めもあって、病院を受診した。帝京大学医学部付属病院の診察ではっきりしたのは、何らかの神経疾患であること、そして進行性の病気であるということ。それ以外、病名さえわからず、高校時代は検査入院を繰り返す日々を余儀なくされる。まもなく、峻平さんは歩行に杖が必要となる。杖は一本からやがて二本に。それでも彼は毎日学校に通い、教会にも通い続けた。
聖学院高校二年の夏に、常盤台バプテスト教会で中田義直牧師(当時)からバプテスマを受ける。「僕は神の御前に罪人であり、主イエス・キリストは自分の罪のために十字架にかかって死んでくださったこと、及び僕を義とせんがために復活してくださったことを信じ、キリストを個人的な救い主として受け入れることを、ここに告白いたします」と、自らの信仰を教会で告白している。そしてその三か月後に、峻平さんは初めて車いすを使うようになる。
「峻平はいつも笑っていた」
高校卒業後、キリスト教同盟校推薦で青山学院大学経済学部に入学。経済学部の一、二年生は神奈川県淵野辺にある「相模原キャンパス」に通わなければならず、自宅のある東京板橋区から朝のラッシュ時に毎日車いすで通うのは到底無理な話しだった。峻平さんは母の綾子さんと共にキャンパス近くのアパートで生活することにした。大学生活は峻平さんの一つの大きな夢であった。ACF(青山キリスト教学生会)に所属した峻平さんは、多くのクリスチャンの仲間と出会う。この仲間たちが、峻平さんの生涯の友となるのである。
私が執筆を始める時、まず大学時代の友人数名の方に取材を申し込んだ。その中で、全ての友人の方が申し合わせたように教えてくれたことがある。それは「峻平はいつも笑っていた」ということだ。しかもその笑顔は大学の友人たちの前だけではなかったのだ。看護師、介護士、教会関係者…峻平さんを取り巻く全ての人が同じことを口にするのだ。「峻平君はいつも笑顔だった」と。大学在学中に、峻平さんは胃ろうを造設し、また咽頭気管分離手術により声を失う。さすがの峻平も今度ばかりは落ち込んでいるのではないか…そんな友人たちの心配をよそに、峻平さんはそれでも…それでも笑っていたのである。
思い出にあふれた大学生活を終えようとする頃、峻平さんは卒業後の進路に悩んだ。友人たちはみな、就職したり神学校に進んだり、それぞれ夢をもって羽ばたいていく。しかし、峻平さんは歩けないし、指もうまく動かない。話すことさえできない。「自分は将来何をすればいいのか。自分に将来はあるのか」。悩める峻平さんに、教会は手を差し伸べた。大学卒業後、峻平さんは教会事務の仕事に就くのである。しかし、未だ病名さえわからぬ難病は、峻平さんの体を侵し続け、それも長く続けることはできなかった。パソコンのキーボードを打つことが難しくなってきたのだ。
病名の確定
峻平さんの病名が確定したのは、二〇一三年五月。初めて検査入院をしてから十年後のことだった。病名は「先天性大脳白質形成不全症」。当時、国内に百例ほど確認できたが、極めて稀な難病である。効果的な治療法は無く、対症療法で症状の進行を抑えていくしか手は無かった。しかし、彼はすでに前を向いていた。
峻平さんは後になってこの当時の思いを証ししている。毎日生きるだけで精一杯という状態の中、「食欲・物欲はない。でも、できたらもう一度勉強したい。神様のことをもっと勉強したい」。峻平さんは東京バプテスト神学校のライブ受講生となる。この報は、大学時代の仲間たちにも驚きと感嘆をもたらした。すでに峻平さんの生き方と神を求める姿勢は、多くの仲間たちに影響を与え続けていたが、難病を抱えながら神学校で学ぼうとする峻平さんの姿は、牧師を目指して学んでいる仲間の神学生にして「我々など足元にもおよばない」と言わしめるのである。
それだけではない。峻平さんは「神様を中心とした交わりの中で自分の経験が役に立つなら」と、日本バプテスト連盟の「障がい者と教会委員会」の委員となる。峻平さんは後に「チーム峻平」と呼ばれる四人(峻平・母・看護師・介護士)で飛行機や新幹線に乗り込んでは全国を飛びまわり「証し」をした。NPO法人主宰の講演会では、プレゼンテーションをした。そこでは「言葉の重み」と題し、「要介護者が介護者にいちばん伝えたいのは『いろいろな生きるための要求』ではなく、本当は『感謝』の気持ちです」と述べた。
それは「闘い」であった
みなさんは、峻平さんの人生に「難病を患った一人の若者の美しい信仰物語」を想像されるだろうか。確かに、クリスチャンとなった峻平さんの中心に信仰があったことは間違いない。しかし「美しい」かどうか、それは本を読んでから判断していただきたいと思う。負けず嫌いで、誇り高き人であった福本峻平は、弱冠十六歳で歩行に杖が必要になった。手の指さえいうことを聞かなくなった彼は、その翌年、自身のプライドであったヴァイオリンを辞めざるを得なくなった。車いすの生活となり、青山学院大学に入学したものの、在学中にも症状は急速に進み、手足だけでなく内臓も十分に機能しなくなった。そしてそのことによる誤嚥性肺炎を防ぐため、胃ろうを造設し、口からの飲食ができなくなり、ついには咽頭気管分離手術によって声を出すことができなくなった。やがて表情を作る顔の筋肉さえ麻痺した。眼も痙攣を起こし、パソコンのモニターを見続けることが難しくなった。三十三歳で息を引き取る際には、顔が大きくむくんで別人のようになった。この人生を表現するのに、壮絶な「闘い」という以外、私はふさわしいことばを知らない。これを「美しい」と表現するなら、それは何を根拠にどこから来るのか。
執筆をしていて感じたことがある。これほどの難病を抱えながら、峻平さんの周りには、その笑顔に魅了された人々が集まって来たのだが、その時々に「必要な人」が不思議と現れるのである。峻平さんの人生は「闘い」であったが、決して一人で闘っていたのではないのである。家族も闘った。そしてその時々に現れる人々も闘い、強力にサポートした。そして何より、その人たちをお遣わしになった神の存在があった。
峻平さんは「自分には何もできない」と言うこともできたし、そう言ったところで誰も諫めはしないはずである。しかし、彼はそう言わなかった。そのことばは決して「謙虚さ」から出ているのではないと理解していたのだろう。「何もできない」ということばは、自分の力でやろうとしている人のことばだ。しかし、無力な自分を完全に神にゆだねる時、自分にもできることがあると気づく。「一人でやるのではない」ことを知るからだ。峻平さんは無力だった。そして、その無力な自分を神の前に投げ出した。その時「共に闘う方がいてくださる」ことを知ったのだ。常に「今、自分にできること」を求め続けた人だった。
少年時代の誇りであった「ヴァイオリン」を手放さざるを得なくなった時、峻平さんの誇りは「神」となった。福本峻平の美しさは、そこにあるのではないだろうか。
(記・高井 透/ベル・プランニング代表、日本バプテスト連盟高崎キリスト教会 会員)
(※「百万人の福音」2023年1月号54p~57p掲載記事は下記よりダウンロードしてご覧いただけます)